チェリッシュxxx 第1章

B ミッフィーちゃんと呼ばないで


「じゃ、これが入会案内のパンフレット。授業料は前期と後期に分けて指定銀行に振り込んでもらう形なんだけど、今週中に申し込んでもらうと10%引きになるから言って下さいね。それ用の振込用紙をお渡ししますから」
「はい。ありがとうございます」
あたしは事務員から入会案内が入った封筒を受け取った。
「どうだった? 結衣」
事務所の前で封筒の中身を覗いているあたしに、麻美が声をかけてきた。
「うん。分かりやすかった。先生も気さくで楽しい先生だったし…、多分決めると思う。一応、親に話してからになるけど」
あたしはカバンに封筒をしまいながら言った。
「とうとう結衣も塾通いか。何コースにするの?」
「数学苦手だから、数学コースにしようかなって思ってるんだけど…」
「そっか…。じゃ、クラスは別になるわね」
今日は麻美の通っている塾に体験入学に来ていた。
今年は受験の年で、さすがに今のままじゃどこの大学にも入れないと心配した親が、塾に行けと言い出したからだった。
で、どうせ入るなら麻美が通っている塾にしようと思ったのだけれど…
麻美は英文科志望で、そっちの方の強化コースに入っていた。
あたしはまだ志望大学や学科が決まっていなかったから、他の科目と比べて苦手な数学を選択するように言われていた。
「うん。残念だけど、しょうがないよね」
あたし達はそろって塾を出た。
時計は10時になろうとしていた。
「結構遅くなっちゃうんだね」
「そうね。でも、商店街の中だから暗くて危ないってことはないんだけど…、逆に酔っ払いとか? そっちの方が心配」
結衣も気をつけてね、と言うと塾の目の前のバス停に目を向けて、
「あたし、ここからバスで帰った方が早いんだけど…。結衣は電車よね? どうしよう、心配だし、あたしも今日は電車で帰ろうか?」
「ううん、大丈夫よ。駅まで10分もかからないし、一人で帰れるから」
「ホント? 大丈夫?」
なんて話をしているうちに、バスがやってきた。
麻美は、ゴメンね、気をつけてね、と言うと、バスに乗って帰っていった。
「これから塾に入ったら、いつも一人なんだしね…」
あたしはそう呟くと、駅に向かって歩き出した。
塾が入っているビルはバス通りと商店街の道の角にあった。
角を曲がると、本屋や定食屋、ゲームセンターやカラオケBOX、居酒屋などが並んだ商店街になっていた。
10時近いこともあり、すれ違う人の多くは酔っ払ったサラリーマンか、大学生以上の若者だった。
中には、呑み過ぎて目が据わった危なさそうなおじさんもいる。
あたしはなるべく目を合わせないように、視線を足元に落として足早に駅に向かっていた。
なんか、やっぱり、麻美に一緒に帰ってもらった方が良かったかも…
って、入ったら結局は一人で帰ることになるから、今日だけ一緒に帰ったって同じなんだけど…
それとも、もっと家から近い所にした方がいいかなぁ。
でも、もう今日の見学のとき住所とか名前とか聞かれちゃってるし、パンフレットまでもらっちゃったし。
どうしよう。
なんてことを考えながら歩いていると、いつの間にか商店街を抜けていた。
「あれ?」
あたしは辺りをキョロキョロと見回した。
ここどこ?
この駅は、学校からそんなに離れてはいないんだけど、いつもは利用しない沿線の駅だったから、地理がよく分からなかった。
もともとあたしは方向音痴の気があり、初めてきた場所では大抵迷うことが多い。
しかも今日は、来たときはまだ外が明るかったのに、帰るときは真っ暗になっていて、ちょっと雰囲気が違って見えるせいか余計に迷いやすかったみたい。
って、そんな自己分析はいいのよ。
戻らなくちゃ。
確か、商店街から一本曲がると駅に出るんだったよね。
あたしは夕方麻美と一緒に歩いた道を思い出しながら、商店街へ出ようと足を早めた。
そのとき、
「ねぇ、キミ、高校生?」
急に背後から声をかけられて、あたしは飛び上がった。
「は、はい?」
振り向くと、スーツ姿のおじさんが立っていた。
な、なんだろう? ウチのお父さんくらいの人だけど…
「まさか、中学生ってことは、ないよね?」
顔は赤いけど、お酒臭くはない。
酔っ払いではないらしいことが分かって、ちょっとだけ安心した。
あたしは内心ムッとしながら、
「はぁ? あの、高校生ですけど…」
とおじさんを睨みつけた。
この低い背と、決して大人っぽいとは言いがたい顔のせいで、よく中学生に間違われることがあるのだけれど、それは大体私服のときだった。
制服のときに中学生に間違われたのは初めてだった。
もしかして、髪切ったから?
今どき失恋ぐらいで髪切るなんて…と麻美にも呆れられたんだけど、やっぱり失敗だったかな…
そんなことを考えていると、おじさんが、
「コレでどお?」
と指を2本立てた。
「は?」
訳がわからないので聞き返す。「なんですか? それ」
するとおじさんは、
「ええ? ニじゃダメなの? じゃ…ニィゴーは?」
「あの…、なに言ってるのか、分からないんですけど…」
あたしが後ずさりながらそう答えると、おじさんはあたしの頭からつま先まで眺め回し、
「う〜ん、キミ、あんまり発育良くなさそうだけど、……あんまり遊んでなさそうなところがいいなぁ…。やっぱ、サン! 3万円出すからさ。だったらいいでしょ?」
…え? ええっ?
「ほら、そこで」
とおじさんが、やたら派手なネオンが点灯しているホテルを指差した。
「えっ? あ、あのっ、あたし、違いますっ」
やだっ。コレって、援交の話だったのっ!?
「何言ってんの。どうせ初めてじゃないんでしょ」
おじさんがあたしの腕をつかんで連れて行こうとする。
「ちょっと、放して下さいっ」
「騒がないで! 目立っちゃ困るでしょ、お互い」
「だから、違うって言ってるでしょっ!!」
あたしは持っていたカバンを振り回した。
それがたまたまおじさんの顔面に当たってしまった。
「―――いってぇ。下手に出てりゃ調子に乗りやがって…。ぶってねぇで、さっさと来いよっ!」
おじさんがいきなり豹変し、ちぎれるんじゃないかというような勢いで、グイグイと腕を引っぱった。
や、やだやだやだやだ――――――ッ!!
あたしは顔を伏せて半泣きになりながら、必死に抵抗していた。
すると、今度はいきなり後ろから抱きすくめられた。
て、抵抗できないっ!?
あたしはパニくってしまった。
「やだぁ――っ! ちがうもん、あたし、そんなんじゃないもんっ! 放してよ〜っ!!」
「おいっ」
やだぁ〜、こんなおじさん―――
「おいって!?」
杉田先輩とだって、そんなことしたことなかったのに、絶対イヤ〜っ!!
「ミッフィーちゃん!!」
初めてが、こんなおじさ…―――
……え? ミッフィーちゃん?
って、言った? 今……
驚いて顔を上げると、おじさんがあたしの目の前で、腕をつかんだままポカンとしていた。
あ、あれ?
あたしは、目線を自分の顔の下にあるそれに向けた。
じゃ、この腕……、誰の?
あたしは恐る恐る振り返った。
「な、なんだ。お前はっ」
ハッと我に返ったおじさんが上ずった声で怒鳴った。「関係ないヤツは、引っ込んでろっ」
「カンケーなくないの。この子、オレのツレだから」
背後にいたのは、あの商業科の背の高い男の子だった!
「オジサンさぁ、無理矢理連れ込みなんて、ヤバイんじゃないの?」
「む、無理矢理じゃないぞ! ちゃんと交渉成立してるんだからなっ」
してないっ!
「どっちにしても、この子はダメだよ。帰って」
と男の子が、あたしの手を掴んでいたおじさんの腕を捻り上げた。
「あたたたたっ」
おじさんは顔を歪めて、あたしの手を放した。「く、くそっ」
ふざけるなっ、と捨てゼリフを吐いて、おじさんは逃げるように走り去って行った。
あたしはおじさんの姿が完全に見えなくなった途端、ホッとして腰が抜けたようになり、その場にしゃがみこんでしまった。
こ、怖かったよぉ〜。
「大丈夫? ミッフィーちゃん?」
男の子があたしの横にしゃがみこんで言った。「何もされてないよね? まだ」
猫のようなアーモンド形の瞳が、あたしの顔を覗き込んでいた。
「あ…、だ、大丈夫」
大丈夫、と答えつつも、まだ恐怖が完全に抜けきってなくて、あたしは立ち上がれずに肩で大きく息をしていた。
やだやだやだ!
もうこんなこと、絶対やだっ!!
麻美には悪いけど、この塾断る! もっと学校か家に近い所にするっ!
「なんか、大丈夫じゃないみたいだね」
「……ゴメンね。助かった。どうもありがと。……あの、もう大丈夫だから、行っていいよ」
「立てるの?」
あたしが黙ったまましゃがみこんでいると、男の子は小さく溜息をついて、ポケットをごそごそと探った。
「―――ちょっと、何してるの?」
男の子がそれを口に咥えたので、あたしは驚いて言った。
「何って―――、火ぃ点けようとしてんだけど?」
男の子は咥えたタバコに、ライターで火をつけるところだった。「あ、ミッフィーちゃん、風紀委員だっけ?」
と男の子は笑いながらタバコに火をつけ、それを大きく吸い込み夜空に向かって白い煙を吐き出した。
ここまで堂々とされると、注意する気も失せてくる。
「キミ、2年生? まさか、1年ってことは、ないよね?」
男の子は左手の親指と人差し指でつまむようにタバコを持つと、
「商業科2年B組、今野陸。コンノは今って字のほうの今野で、リクは陸上自衛隊の陸。鉛筆や箸は右利きだけど、運動は大体左利き。タバコはマルボロの緑。それ以外は吸わない。彼女イナイ歴2ヶ月。ほかに質問は? ミッフィーちゃん」
と一気にまくし立てるように言い、ニッと笑った。
あたしはあっけに取られてしまった。
なんか… からかわれてる?
そう思いながらも、これだけ言った。
「―――あのね、ミッフィーちゃんって呼ぶの、止めて」
「なんで? ミッフィーちゃんカワイイじゃん。嫌い? ミッフィーちゃん」
「カワイイから、名前負けしそうでイヤなの。あたしそんなにカワイくないもん」
「そんなことないと思うけど……」
とあたしの顔をじっと見て、「じゃ、名前教えて? 名前で呼ぶから」
「―――村上…だけど?」
……ちょっと、その眼でじっと見ないでくれる?
「下の名前は?」
だから、そんなに見ないでってばっ!
「ゆ、結衣……」
蛇に睨まれたカエル…、じゃなくて、猫に睨まれたネズミの気分なんですけど…
「ユイ……。字はどんな字書くの?」
「むすぶ、に、ころも、で、結衣」
「結衣ちゃん、ね。……ふうん」
そう言うと、男の子は黙ったままタバコを吸っていた。
「あ、あの…」
あたしは沈黙を破るように切り出した。「今日は本当に助かった。どうもありがとう」
「さっき聞いたよ」
「それと、……この前は、言いすぎちゃって、ごめんなさい」
「ん?」
「あの、あたし、ちょっと、その…なんて言うか、動揺しちゃってて、ついひどいコト言っちゃって…ゴメンね」
「何が?」
「―――商業科は最低だって…」
男の子は、ああ、と呟くと、ちょっと笑って、
「低俗……とも言ってたな」
「学科で差別するようなこと言って…。最低なのはあたしの方よね。本当に、ごめんなさい!」
「いいよ、別に。そう言われるの慣れてるから」
と言って立ち上がった。「もう、立てるんじゃない?」
「あ、うん」
あたしも慌てて立ち上がった。
「ところで、こんな所で何してたの? 結衣は」
いきなり呼び捨て?
「…塾の下見の帰り。今野くんは?」
「あ〜、今野って呼ばれるの慣れてないから、陸って呼んでくれる?」
「え? そんな、いきなり呼べないよ。今野くんでいいじゃない」
「じゃ、オレもミッフィーちゃんって呼ぶ」
うっ!
「―――っ!? こんな所で何してたの…、り、陸はっ!」
陸…は、満足そうに笑うと、
「これから仲間とカラオケだよ。結衣」
「こんな時間から〜?――――って、今何時っ!?」
あたしは慌ててケータイを見た。「うそっ!? もう11時? あたし帰らなきゃっ!」
と、駅の方に走りかけて、―――振り向く。
「ねぇ……、駅ってどっち?」
陸は一瞬キョトンとした顔をして、
「…マジ? 迷子になってたのかよ〜!?」
とおなかを抱えて笑い出した。「こんな簡単な場所で? 高校生が?」
あたしは恥ずかしくなって、
「いいから、さっさと教えなさいよっ! 先輩の命令よっ!?」
と腰に手を当てて、下から睨みつけた。
「こっちです…。先輩……」
陸は笑いをかみ殺すようにして歩き出した。
うう… 偉そうに言ってみたけど、全然先輩の威厳、ないよね。
陸は笑いながらあたしを駅まで送ってくれた。
「家まで送らなくて、大丈夫?」
「うん。電話して、弟に迎えに来てもらうから」
陸は、そっか、と言うと、
「じゃ、結衣。またどっかで!」
と言って、商店街の方に走り去って行った。
どっかで…、って、学校じゃないの?
なんか、商業科だからって、偏見持ってたところもあったけど…
結構いいところあるじゃない。


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