ひとつ屋根の下   第4話  断てない想いD

幸い、琴美は命に別状はなかった。
表面の皮膚を浅く切っただけだったのと、すぐに周りに気付かれ手当てされたおかげで出血も少なかったらしい。
それを聞いてひとまず胸をなで下ろした。
「ゴメンね、伊吹くん…… 気が付いたら、コトミ……」
琴美は左の手首に包帯を巻いてベッドに横たわっていた。 その周りに2人の女の子が立っていた。
どうやら琴美の友達で、伊吹に連絡してきたのもこの子たちらしかった。
「ナナちゃんもゴメンね? 心配かけて……」
大きな目に涙を溜めて琴美があたしにも謝ってくる。 とりあえず首を振っておいた。
この前会ったとき伊吹のイトコだと自己紹介したせいか、あたしも病院に来たことに琴美はなんの違和感も感じなかったみたいだ。
「ホントにごめんなさい。 迷惑かけちゃって……」
琴美が再び伊吹に謝る。
「……いや。 オレのせいだから……」
と伊吹が微かに目を伏せる。「……ゴメンな」
……なんで?
なんで伊吹が謝るの?
伊吹のせいじゃないじゃん!
この子が勝手にやったことじゃんっ!! 伊吹全然カンケーないじゃんっ!!
ていうかむしろ、こんなことで呼び出されて伊吹こそ被害者じゃんっ!!
「今日伊吹くんに、もう会えないって言われて、なんとか自分を納得させようと頑張ったけど…… やっぱり無理だったの」
琴美の目に溜まっていた涙が、つ…と零れ落ちる。 その姿が絵になっていて思わず見惚れてしまうほどだ。
琴美が包帯の巻かれていない右手で伊吹の手を取る。
「コトミやっぱり伊吹くんに会えなくなるなんてヤダ! 耐えられないよ! 伊吹くんがいない生活なんて考えられない!」
「琴美……」
「彼女じゃなくていいのっ! 友達でいいから…… だからまた会ってもらえないかな?」
それじゃ今までと同じじゃん!
今までも友達だっていいながら、実際は彼女以上に伊吹のこと振り回して束縛してたんじゃん!
そんなお願いに伊吹が肯くわけないよ!
それに、琴美のためにもならないって、もうそういうのやめるって、ハッキリそう言ったんだから……
と伊吹の方を窺ったら、伊吹は目を伏せて小さく息を吐き出したあと、
「……分かった」
と肯いた。
……は?
「ほんとっ!?」
途端に琴美が顔を輝かせる。
驚いて伊吹の顔を凝視した。
……あんた何肯いてんの?
……さっき、もうやめるって言ったじゃん。
「琴美〜、良かったね〜」
琴美の友達も嬉しそうに笑顔を見せる。
……なにが良かったのよ?
……なんであんたたち伊吹に連絡なんかすんのよ?
怒りにも似た感情が、むくむくとお腹の中に溜まり始めた気がした。
「うん、ありがと〜。 2人のおかげだよ〜」
「じゃ、あたしたち帰るね」
おせっかい2人組は琴美に手を振るとそのまま病室を出て行った。
「ナナちゃんにも心配かけちゃったけど、もう大丈夫だから!」
琴美は暗にあたしも病室から追い出そうとしている。 当然だけど、気付かないフリをした。
あたしはあんたの友達じゃない。
さらにお腹の中にムカムカしたものが溜まっていく。
病室を出て行かないあたしに琴美は一瞬だけ眉を寄せたけど、そのまままた伊吹の方に向き直った。
「伊吹くん優しいから絶対来てくれると思ったぁ」
伊吹は頼りなげに首を振って、
「……オレは優しくなんか、ない」
「ううんっ、優しいよっ! コトミちゃんと分かってるもん!」
琴美はそう言うと、ベッドから半身を起こして伊吹に抱きついた。「伊吹くん大好きだよっ!!」

―――ムカムカが頂点に達した。

ドスドスと琴美のベッドに近づいて、
「はぁっ!? 伊吹のどこが優しいってっ!?」
と琴美を見下ろした。
「え…… ナナちゃん?」
琴美が驚いてあたしを見上げた。 伊吹も驚いた顔をしてあたしを振り返る。 その伊吹を指差して、
「こいつほど二重人格な男はいないよっ! あんた騙されてんじゃないのっ!?」
「? どーゆー意味?」
琴美がちょっとだけ眉を寄せる。
「学校や外じゃチョー優等生ヅラしてるけど、実は酷い男なんだからっ! 横暴だし、自分勝手だし、オレ様だし…… それにメチャクチャ嘘つきなんだからねっ!!」
「……でも、伊吹くんコトミにはすごく優しいよ? ねぇ?」
琴美はあたしにそう言ったあと、伊吹を見上げてちょっと首を傾げる仕草をした。
そんな仕草も可愛らしくて、余計に歯止めがきかなくなった。
「それは責任感じてるからっ! ……ううん、あんたがこんな風になったのは伊吹のせいだって、あんたの友達が責めたからっ! そんなこと言われて自分が悪者になるのは嫌だったからっ! 全部偽善なのっ!!」
「うそ…… うそだよ」
「ホントだよっ! 伊吹はあんたのことなんかなんとも思ってない! はじめから好きでもなんでもなかったのっ!!」
琴美が耳を塞いで首を振る。
「ウソだよっ!」
「ホントっ!!」
「ウソっ!!」
琴美があたしを睨んだ。「……ホントはナナちゃんも伊吹くんのことが好きなんでしょ!?」
「……は?」
「だからそんな意地悪なこと言うんでしょっ!?」
思いがけない琴美の反撃に、一瞬何を言われているのか分からなかった。
……伊吹を?
……あたしが?

―――…好き?

琴美が言った意味を理解した瞬間、ドクンと大きく心臓が鳴った。
「だっ、だだ誰がこんな性格悪い男を好きになるかっ!! なに言ってんのっ!? バッカじゃないのっ!?」
慌てて琴美のセリフを否定した。「だ、第一、伊吹には他に好きな人がいるんだからねっ!!」
あんまり慌てすぎてそんなことまで口走ってしまった。 あたしのセリフを聞いて琴美が固まる。
「……ウソ」
可愛い顔が悲しげに歪む。
「……ホントだよ。 悪いけど」
琴美はゆっくりとした動作で伊吹を見上げた。
「伊吹くん……ホントなの?」
伊吹は黙って琴美を見下ろしている。 琴美の顔がますます悲しげになる。
「彼女いないって……そう言ってたのに!」
琴美はつかんでいた伊吹の手をさらに強く握り締めた。
「彼女はいないよ」
「え…… じゃあ、片想いってこと?」
琴美のセリフに肯く代わりに、伊吹はちょっとだけ笑ってみせた。
それで琴美も悟ったみたいだ。 驚きの表情に変わる。
まさか伊吹が片想いしてるなんて……、と。
「どうして…… だって、伊吹くんなら誰だって喜んで付き合ってくれるでしょ? 伊吹くんが片想いとか、信じられない……」
伊吹は肩をすくめると、
「そんなことないよ。 なんせ横暴だし、自分勝手だし、オレ様だし…… あと嘘つき、だっけ?」
とあたしを流し見た。 そんな伊吹を軽く睨んでから、
「……伊吹はあなたにとっては完璧な人だったかもしれない。 けど、本当は伊吹だってあたしたちと同じなの。 同じように誰かを好きになって、同じように失恋することだってあるんだよ? その人のことずっと忘れられなくて、苦しい思いをしてるんだよ…… 」
その人のことを考えると切なくなるっていう相手がいるんだよ。
―――オレだって失恋したことある。
って、あんな泣きそうな顔するぐらい想ってる人がいるんだよ。
「……だから、もう伊吹のこと許してあげてよ。 伊吹もあなたにいい加減なことをしたのは反省してるだろうからさ」
琴美はしばらくの間伊吹を見つめていたけど、
「……分かった」
と伊吹の手を放した。
「ホント?」
こくん、と琴美が肯く。
「もうやたらと伊吹に連絡したりしちゃダメなんだよ?」
「分かってる」
「伊吹と会えなくなったからって、またごはん食べなくなったり、自分のこと傷付けたりしちゃダメなんだよ?」
「分かってるってば!」
と琴美はもう一度肯いて、「そんなことしたら伊吹くんに心配かけちゃうもんね」
「琴美、ゴメンな。 オレがいい加減な気持ちで付き合い始めたから、琴美のこと傷付ける羽目になったんだ。 ホントにごめん……」
伊吹がそう言って謝ったら、琴美も、
「ううん、コトミこそゴメンね。 伊吹くんの気持ちも考えないでワガママ言って……」
と大きく首を振った。「お互い新しい人……見つかるといいね」

「まだ……好き、なの?」
病院からの帰り道、すっかり日が落ちた国道を伊吹と並んで歩いた。
三橋病院から駅まで出るには、距離的にもバスを利用した方がいいんだけど、夜はその本数が極端に少ない。
タクシーを呼ぶほどの持ち合わせもなかったし……
仕方がないから自分たちの足を使うことにした。
いろいろあったせいであんまりしゃべりたくないかもしれないけど……
でも、気になって仕方なかったから、思い切って聞くことにした。
「は? 好きって…… 琴美のことか?」
伊吹が眉を寄せてあたしを見下ろす。
「違うよっ! それはさっき聞いたじゃんっ!」
「じゃあ?」
あたしは小さく息を吐き出すと、
「だ、だからぁ……あんたが本当に好きな人のことだよ」
と伊吹に聞いた。「前に言ってた失恋した相手ってのがそうなんでしょ? その子のことまだ好きなのかなーって」
「あ〜… そんなこと言ったっけ」
と伊吹は夜空を見上げて、「よく覚えてんな、文系のくせに」
文系カンケーないでしょっ!?
ってちょっとムカついたけど、今はそれを突っ込むより聞きたいことがある。
大人しく、次の伊吹のセリフを待った。
伊吹は視線を夜空に上げたまま、
「……どうなんだろ。 よく分かんねーや」
と呟いた。
「? よく分かんないって……?」
「分かんねーもんは分かんねーんだよ」
……もう、諦めたってことなのかな?
そう話す伊吹の横顔が頼りなげで、なんだかあたしまで切なくなってきそうだ。
慌てて明るい声を出した。
「で、でもさっ、あんたの外面に騙されない女子もいるんだねーっ!」
「なんだよ、外面って」
眉間にしわを寄せて伊吹があたしを見下ろす。
「だって普通の女子だったら、あんたに告られたら誰でも喜んで付き合いそうじゃん? でもその子は断ったんでしょ? あんたの正体見抜いてたってことでしょ!?」
あたしの憎まれ口に、また応戦してくるかと思ったら、
「……告ってない」
「え?」
「向こうはオレの気持ちなんか知らねーよ、きっと」
告白してないの……?
「な、なんで……? 言えばいーじゃん。 とりあえず、さ」
告白してみないと分かんないじゃん……
伊吹は視線を車道の方に向けると、
「……言えない人だから」
と呟いた。
走っている車の音に掻き消されそうなくらい、小さい声だった。
「つか、好きになっちゃいけない人」
「え……?」
どういう意味?
同じ学校の子じゃないの?
言えない人って……もうすでに彼氏がいる人とか?
好きになっちゃいけないって…… ま、まさか先生とかっ!?
いやいや、伊吹は校外にも友達多そうだし、バイト先の人とか……
なに? 誰なのっ!?
すごい気になるじゃん―――っ!!
伊吹は急に明るい調子に戻って、
「まあ、今は前ほどそうゆう気持ちじゃなくなってるかもな。 諦めついたっつーか? ……つか、なんでオレお前なんかにこんな話してんだろ」
と少しだけ唇を尖らせた。 そしてあたしの鼻先に指を突きつけると、
「今の話は忘れろ!」
とまた命令してきた。
いつものオレ様伊吹だ。
そんな伊吹にちょっとホッとしながらも、
「また命令ですかっ!」
と頬を膨らませて見せたら、また伊吹が楽しそうに笑った。
もう諦めたのか、まだ想いは断ち切れていないのか……
それは全然分からないし、すごく気になったけど…… 伊吹が笑ってるから、今はそれでいい。
伊吹はひとしきり笑ったあと、
「あー、お前といるとラクだわ」
「そりゃそうでしょっ! なんでも言うこときくパシリ……っていうか奴隷なんだから! 便利だよねっ!」
ふん、と伊吹から顔を背ける。
「じゃなくてさ、気がラク」
「え?」
驚いて伊吹の顔を見つめる。
「気ぃ使わなくていいし…… ホッとする」
伊吹もあたしを見下ろしていた。
すぐ横を走る車が巻き起こす風が、伊吹の髪をさわさわと揺らしている。
その前髪の隙間から見える伊吹の瞳があたしを見下ろしていた。
その瞳にワケもなく胸が締め付けられる。
「お前みたいなのと付き合ったら……」
心臓が大きく跳ねた。
「……男はラクだろーな」
「………」
……なんだ、一般論か……
緊張で固まっていた体が、一気に緩んだ。
……って、なんで緊張してたの? あたし。 ワケ分かんないっ!!
伊吹はすっかりいつもの意地悪な顔に戻って、
「あと、面食いな男じゃなければな」
と笑った。
「ちょっとっ!? それどーゆー意味よっ!!」
思い切り伊吹の背中を叩いた。

家に帰り着いたのは8時近かった。 家の中は真っ暗だ。
「あれ? なんで法子さんもパパもいないんだろ?」
あたしが首を捻ると、
「お前アホか。 イタリアン行く約束だったろーが」
と伊吹に突っ込まれた。
……そうだった。 すっかり忘れてた。
さっき慌てて出るとき、後から行くって法子さんに言ったきり全然連絡も入れてないや……
「どうする? あたしたちも今から行く? 一応予約するって言ってたし」
と伊吹に聞くと、
「予約っつったって席取ってあるだけだろ? オレはパス。 つーか、疲れてて出かけるのメンドい」
たしかに、病院から歩いて帰ってきて疲れているし、これから出かけていくのはちょっと面倒くさい。
「お腹すいてないの?」
と聞いたら、
「腹は減ってる」
と伊吹はお腹の辺りを押さえて、「お前なんか作って」
ととんでもないことを言い出した!
「ええっ!?」
思わず声が裏返ってしまった。「そ、そんなの急に無理だよっ!買い物も行ってないしっ」
大慌てで手を振る。
お母さんが死んでからパパと2人きりだったし、簡単な料理ならあたしも作ってきたから、料理自体が無理なんじゃない。
ただ、パパが再婚してからはごはんの支度は全部法子さん任せだったから、冷蔵庫に何があるのか分からないし、なにより、あたしが作ったものを伊吹が食べるっていうのが……っ!!
あたしが慌てて拒否しても伊吹は、
「なんかあるもんで、テキトーでいいよ」
と譲らない。
……う、うそでしょ〜〜〜っ!
「ほら、腹減ってんだからさっさとしろよ!」
伊吹に追い立てられ仕方なく冷蔵庫を覗いたら、余った冷ごはんとか卵とかウインナ―、あとテキトーに野菜があったからそれでチャーハンとスープを作ることにした。
味付けとか大丈夫かな?
伊吹って濃い味と薄味、どっちが好みなんだろう?
肉系がウインナ―で大丈夫かなぁ。 でも、チャーシューなかったし。
あ、ネギいっぱい入れちゃったけど平気かな?
自分が好きだから、つい入れすぎちゃったけど…… 伊吹ネギ苦手じゃなかったよね?
「……お、お待たせしました」
色々不安になりながらも、なんとか出来上がったものをおずおずと伊吹の前に置いた。
伊吹は軽く手を合わせると、
「じゃ、いただきます」
とスプーンを手にした。
あたしも伊吹の向かい側で同じ物を手にしていたけど、今は自分が食べるよりも、伊吹の反応が気になる。
伊吹は一口、二口…と食べ進めていく。 特に反応はない。
「……ど、どうかな?」
美味しいのか美味しくないのか気になって、自分から聞いてみた。 伊吹は口の中に入っているものを飲み下してから、
「……ネギが多いな」
と一言。
やっぱり多すぎだったか―――っ!!
と反省しかけたら、
「オレネギ好きだからいいけど。 明らかに普通より多いよな」
とすくったチャーハンを眺める伊吹。
良かった…… ネギ苦手じゃなくて。
とホッとしかけたら、
「これ、何で味付けした?」
と、今度は味付けに関して質問された。
「え…… 顆粒のだしと醤油だけど」
「オレ、鶏がら派」
味は軽く否定された。
……ネギの多さより味の方を受け入れて欲しかった。 どっちかというと。
「まあ、これもアリだけどな」
「……相変わらず上から目線だよね! 作ってもらっといて!!」
あたしが恨みがましくそう言うと、伊吹は笑いながら、
「いや、お前がどうって聞くから」
「そうだけどっ!」
多少なんかあったとしても、美味しいって食べてくれるのが普通でしょっ!?
それを、これもアリだな…とか、言うことがいちいち癇に触るったら……
とムッとしかけたとき、
「うそ。 美味いよ」
「……え?」
……今、なんて言った?
もしかして、美味いって……そう言ってくれた?
言ってくれたよね? 聞き間違いじゃないよねっ!?
その発言を確認する前に、
「ごちそうさま」
と伊吹は再び手を合わせた。 気付いたら伊吹のお皿はもう空っぽになっている。
それに対して、あたしのお皿にはまだ半分近くのチャーハンが残っていた。
「早いね、食べるの」
「だから、美味かったからっつったじゃん」
……やっぱり聞き間違いじゃなかったんだ。
「そ、そう……?」
「うん」
「あ、ありがと……」
「うん」
そう素直な反応をされると、こっちもどうしていいのか……
また緊張してきた。
伊吹は、あたしが残りのチャーハンを食べているところを黙って見ていた。
食べているところをじっと見られているのが居たたまれなくなってきて、
「……な、なんか淹れようか? コーヒーとか」
と席を立とうとしたら、
「いや、いい。 つか、食っちゃえよ」
「う、うん……」
大人しく椅子に座りなおす。
目線をどこに置いていいのか分からない。 どうしようもなくて、目の前のチャーハンを見つめた。
そうやってもそもそと自分の分のチャーハンを食べていたら、
「なんか…… 今日はサンキューな」
と急にお礼を言われた。
「え?」
驚いて伊吹を見上げる。
「琴美のこと。 ずっとちゃんとしなきゃって思ってたけど、なかなか切り出せなかったからさ」
「それは…… 仕方ないよ。 あんなの半ば脅されてるのと一緒だし」
「夕べと言うこと違うじゃん」
「!!!」
確かに夕べは、
「あの子があーなったのはあんたのせい! あんたが同情で甘やかしてるから!」
的なこと言ったけど……
でも、こうやって素直に出られると、ちょっと庇いたくなっちゃうじゃん。
そんなあたしを見て伊吹はちょっと笑うと、
「お前の言う通りだったんだよ。 今回のことはいい加減な気持ちで付き合い始めたオレに原因があったんだ。 それを終わりにしようとしたときも、オレがハッキリしなかったせいで余計に琴美を傷付ける羽目にまでなったし…… だから、夕べお前に言われたことはケッコーショックだった」
「うそ、全然そんなふうに見えなかったけど……」
「お前がマッキーと色々あったとき、偉そうに言ったけどさ。 ホントはそんなこと言う資格ないんだよな、オレ」
慌てて首を振った。
「ううん、そんなことないよっ! だって実際助かったし……徹平だって伊吹のおかげだって言ってた! 伊吹の言うことは深いって!」
伊吹は、琴美との関係で大変な思いをしてきたからこそ、あたしや徹平にあんなアドバイスが出来たのかもしれない。
「いや、オレが並べる御託よりお前の単純な言葉の方がずっといい」
「やっ、あたしは勢いで言っちゃっただけで、何も考えてなかったしっ」
「だから直で入ってくんだよ。 スゲーよお前」
「それ言ったら伊吹の方がすごいよっ! 今回の元カノのことだってさ、彼女のことを突き放せなかったから自分を犠牲にして一緒にいてあげたんでしょ!? 普通出来ないよっ!」
「でも、それじゃ琴美のためにならないってガツンと言ってくれたのはお前だし」
「ううん、それこそ違うよっ! あたしあの子のためとか全然考えてなかったもん! ただ、伊吹があの子に優しくしてるのが……っ なんでもないっ!!」
思わずとんでもないことを口走りそうになって、慌てて口をつぐんだ。
な、なに言おうとしたの? あたし……
あたしの慌てっぷりに全然気付いてないらしい伊吹は首の後ろをさすりながら、
「つーかさ、なんでオレらお互いのこと褒めあってんの? 気持ちわりぃ」
……気持ち悪いって……
確かにいつものあたしたちの関係から考えると、かなり不自然なやりとりだったけど……
そこまで言う?
まあ、それに突っかかってもしょうがないから、
「……そうだね。 やめよ」
とあたしも肯いた。
「さっさと食っちゃえよ。 あんま遅くにメシ食うと太るぞ。 それ以上太ってどうする」
「ッ!! 余計なお世話っ!!」
慌ててチャーハンをかき込んだ。
確かに痩せてるわけじゃないけど、普通女子にそういうこと言うかなっ!?
っていうか、今さっきまでしんみりと真面目に話してくれてたと思ったら、もうそれっ!?
やっぱり分かんない、こいつっ!
あたしがプリプリ怒りながらチャーハンをかき込んでいたら、伊吹は笑いながら席を立った。
そのまま自分の部屋に戻るんだろうと思っていたら、急に伊吹があたしの顔を覗き込んだ。 そしてあたしの目の前に手を伸ばしてくる。
……え?
と思った直後、伊吹の指先があたしの下唇に触れた。
えっ? なな、なにっ!?
うわうわうわっ! なによ〜〜〜っ!!
と焦る間もなく、一瞬でそれはあたしの唇から離れた。 その伊吹の指先に何かくっついている。
よく見たらそれは―――… ごはん粒だった。
慌ててかき込んだせいで唇にくっついていたらしい。
恥ずかしい……
あたしが顔を熱くしていたら、
「ガキ!」
そう言って伊吹は笑い、その指先についたごはん粒を…… 食べてしまった!!
あたしの唇にくっついてたごはん粒を。
伊吹が。
食べた…………?
その事実に気付いた途端、スプーンを取り落としそうになってしまった。
「皿、洗っとけよ」
伊吹はいつものようにあたしに命令すると、そのまま自室に上がっていった。
な、ななな、何今の?
なんで伊吹、食べたのっ? あたしの唇にくっついてたやつっ!
―――これって間接キ……っ!?
「うわ―――っ!!」
それに気付いた途端、耐え切れなくなってテーブルの上に突っ伏した。
なんで? なんでなんでなんで?
なんで伊吹あんなことしたのっ!?
頭の中で、なんで?という思いと、伊吹の顔とがぐるぐると渦を巻いている。
まるで熱でもあるみたいに頭がポーっとしていた。
っていうか、体全体が発熱してる気がする。
あたし絶対…… 湯気出てる……
ぎゃ―――――っ!!!
「あれ? 帰ってるのか〜?」
伊吹の行動にあたしがのた打ち回っていたら、食事を終えてきたらしいパパと法子さんが帰ってきた。
「遅れてくるって言うから待ってたのに全然来ないし、ケータイは繋がらないし心配してたんだぞ?」
「……あ、ごめんなさい」
ケータイは琴美の病院に行ったときに切ったままだった。 今気が付いた。
パパはスーツの上着を脱ぎながら、
「いや〜噂通り美味い店だったぞ! 特にリゾットが美味くて、ナナや伊吹くんにも食べさせたかったなぁ」
「……今度は絶対連れてってもらうから」
とりあえず肯いておく。
……今はもう、美味しいイタリアンどころじゃない。
「そこでちょっと話が出たんだが…… ところでナナたちは夏休みはいつからだ?」
「ごめん、パパ。 あたしちょっと……」
美味しいイタリアンを食べてきてご機嫌のパパの話を途中で遮った。
「ん? どうした?」
「もう部屋戻ってもいいかな。 早く休みたくて」
と席を立った。
「もしかして、まだ体調戻ってないのか?」
急にパパが心配そうな顔になる。 法子さんも、
「そういえば顔赤いわよ? 夕方はそうでもなかったのに……」
「ううんっ! なんでもないのっ! おやすみなさいっ!!」
心配してくるパパや法子さんをかわして、慌てて2階に駆け上がった。 自分の部屋に飛び込みそのままベッドに倒れ込む。
そして…… 指先でそっと下唇に触れてみた。
……伊吹、なんであんなことしたんだろ。
あたしの唇にごはん粒付いてるの見つけても、言えばいいだけの話じゃん? わざわざ取ってくれたりしなくても……
ていうか、それ食べたりしないでしょ!? 普通! 何考えてんのよっ!!
こっ、恋人同士じゃないんだからさ―――っ!!!
とベッドの上で身悶えた直後、
……いや、何も考えてなかったのかもしれない。
と思い直す。
伊吹にとっては普通のことだったのかも……
あたしだけじゃなくて、友達や…それこそ琴美なんかにも普通にしていたことだったのかもしれない。
そう思ったら、今度は急に体の空気が抜けていくような気がした。
「………」
ごろりと壁の方に体を向ける。
……この壁の向こう側に伊吹がいる。
一緒に暮らし始めて3ヶ月弱。
伊吹には何度もムカつかされたり、驚かされたりしてきた。
そのたびにケンカになったことも両手じゃ足りないくらいあった。
けれど、こんなふうに伊吹を意識したことはなかった。
伊吹の言動がいちいち気になる。
そして、その言動に驚いたり、嬉しくなったり、悲しくなったりする。
「なんなのよ…… もう」
伊吹の言動に振り回されている自分が嫌だ。
なんで、あんな横暴で自分勝手でオレ様で嘘つきなヤツに振り回されなきゃならないのか。
自分で自分が分からない。

一体どうしちゃったんだろう、あたしは……
第4話 おわり

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