| 黒猫 |
| 「ほぉら、頼子! そんなところにごろごろ寝転んでばかりいないでちょうだい!」 掃除機をかけていた手を止め、母が鬱陶しそうに言う。 「まったく、急に仕事辞めて帰ってきたかと思えば、なーんにもしないで毎日ごろごろしてばかり・・・。働かないんならさっさと結婚でもしちゃいなさいよ」 実の娘に向かってなんという暴言を吐くのだろうか、この母親は。 頼子も、黙って母の小言を聞いているタイプではない。 「そのうち新しい仕事見つけるわよ。今まで真面目に働いてきたんだから、ちょっとくらい骨休めしたっていいじゃない」 コタツに入ってファッション雑誌を見ていた頼子は、雑誌から目も放さず反論した。 「大体お母さんは、あんたが仕事辞めた理由も、ちゃんと聞かせてもらってないんだからね」 母は、半ば諦めたように、それでもまだぶつぶつ文句を言いながら掃除を再開した。 頼子は1ヶ月前に東京のアパートを引き払って、実家であるこの茨城の田舎に帰ってきた。 7年勤めた一流都市銀行だったが、つまらないことが原因で会社を辞めざるを得なくなってしまったのだ。 会社の上司と不倫をしていたのが奥さんにバレてしまい、すったもんだあった挙げ句、とうとう職場まで乗り込んできての大修羅場となってしまった。 不倫の関係は4年もの間続いていた。が、頼子とて不倫の関係自体を望んでいたのではない。 好きになった相手に、たまたま奥さんがいただけの話だ。 頼子は自分にそう言い聞かせ、不倫自体を正当化しようとしていた。 実際、上司だった飯田からも、「妻とは近いうちに別れる。そうしたら一緒になろう」と言われていた。 頼子はその言葉を胸に。4年間日陰の女として過ごしてきたのだ。 はじめのうちこそ、この人と一緒にいられれば正妻の座なんて欲しくない、この人の愛だけあればいい、と思っていた。 しかし、20代も後半になり、同期入社の女子たちがポツリポツリと寿退社していく様を見ているうちに、自分には一体いつ春が来るんだ、と不満に思うことが増えてきた。 それとなく飯田に話をしても、「妻にはとっくに離婚の話はしている。だがなかなか話に応じてくれない」のだと言う。 頼子はその話を信じていた。 しかし、実際フタを開けてみれば、話はまったく違っていた。 飯田は妻に何一つ話などしておらず、ずっと仲良くやってきたと言うのだ。しかも、半年後には初めての子供も生まれるという。 なんと馬鹿なことをしていたのだろう。私の4年間は何だったのだ。 金融関係は特に対人関係、まして不倫などという事にうるさく、私生活が管理できない人間に金の管理ができるか、と飯田は地方の閑職に飛ばされた。 頼子には表立ったお咎めはなかったが、不倫相手の奥さんと職場で大立ち回りを演じた後も、図々しく会社に居座るほどの神経を持ちあわせていなかったから、飯田の左遷と同時に会社を辞めたのだった。 そんなことを母に話せるはずもなく、今まであいまいに誤魔化していた。 「暇なんだったら、ちょっとおつかい頼まれてくれない?」 すっかり掃除を終えた母が、エプロンで手を拭きながら頼子に声をかけてきた。 「なぁに?」 「今夜はスキヤキにしようと思ってるんだけど、ネギがないのよ。ちょっと買ってきてくれない?」 「さっき買い物に行ってきたときに、なんで買ってこなかったのよ」 頼子があきれながら言うと、 「うっかり忘れちゃったのよ。あんたと違ってお母さんは忙しいからね!」 と500円玉を渡してきた。 ちょうど読みたい雑誌があったところだし、そのついでに行ってくるとしようかしら。 頼子が洗面所で化粧をはじめると、 「あんた、たかがネギを買いにどこまで行く気なのよ、化粧なんかして」 と母が顔をのぞかせた。 「いいでしょ。ノーメイクで外を歩くなんて出来ないのよ。こんな田舎でもね!」 母の呆れ顔を背に、頼子は家を出た。 この町で食料品や日用雑貨、雑誌まで置いてあるスーパーまでは歩いて15分ほどかかる。 コートの襟をかき合わせ、めったに車の通らない県道を歩く。 何も変わっていない。 商店までの道を歩きながら頼子は思った。 角のタバコ屋のおばあさんは、相変わらず起きてるんだか寝てるんだか分からない体勢で店番をしているし、接骨院の窓から見える患者の顔ぶれも、11年前と同じように見える。 本当に何も変わってないのね。 頼子はなぜか苛立たしさを感じた。 自分はなぜ、こんな田舎に帰ってきてしまったのだろう。 「・・・あれ? もしかして頼子ちゃんじゃないのけ?」 いきなり背後から声をかけられ、頼子はビックリしながら振り向いた。顔中しわだらけにした老婆が一人立っている。 一瞬誰だか分からず、相手を探るような目つきで見返すと、 「わからんのけ?トミさんの畑の隣で、瓜を作ってた亀山だよぅ」 亀山と名乗った老婆は、しわだらけの顔をさらにしわくちゃにして笑った。 トミさんとは、頼子の祖母、富美子のことだ。そう言われれば、よく祖母に連れられていった畑の隣に、こんな老婆がいたような気がする。 「頼子ちゃんはいい子だねぇ。おばあちゃんのお手伝いかい?」 と言って、かりんとうをもらった覚えがある。あの老婆なのだろうか? 頼子が小学生の頃まで、家で食べる野菜のほとんどは、頼子の祖母が畑で作ってきたものだった。 特にナスやスイカなどの瓜類が多かったように思う。盆や正月など人が集まるときには、必ずと言っていいほどかぼちゃの煮物が出てきたものだ。頼子はあの甘ったるいかぼちゃの煮物が嫌いだった。 その煮物も、祖母が死んだと同時に畑を止めたおかげで、食卓にあがることはなくなった。 「いやぁ〜。しばらく見ないうちに、ずいぶんハイカラになっちゃって、まぁ・・・」 とあごを引き、頼子の頭から爪先まで無遠慮な視線をぶつける。 「それじゃ・・・」 頼子は曖昧にお辞儀をすると、そそくさとその場を立ち去った。 老婆はもっと何か話したかったようだが、構うものか。 きっとまだこちらを見ているだろう。振り返らなくても分かる。都会にかぶれて帰ってきたとでも思っているのだろう。 これだから田舎は嫌なのだ。 みんなが自分を知っている。しかも生まれたときからの自分を。 東京ではこんなことはなかった。隣に住んでいるのがどんな人間かも分からない。 同じアパートで殺人事件があったにもかかわらず、他の住民が誰一人としてその部屋の者が死んでいることに気が付かない。だから発見されるのが大分遅れた、なんていう事件が東京ではざらにある。 他人に関心がない。 それが11年間東京で暮らしてきた頼子にとってはとても心地よいことだった。 スーパーとは名ばかりの小さな商店に着くと、頼子はまず雑誌売り場に向かった。田舎の、しかも書店ではなくスーパーに置いてある本の数などたかが知れている。 数少ない本の中からなんとか読めるものを物色し、その数冊を手に野菜のコーナーへ向かう。 野菜のコーナーには一人の女がいた。 当然地元の人間だろう。地味な服を着ている。ほとんどジャージと言ってもよさそうだ。 ああ、いやだいやだ。 いくら、ちょっと買い物に出るくらいだからと言って、あの格好はないだろう。 田舎に帰ってきたとはいえ、自分は絶対に染まりたくない。 頼子は相手を見下したように、ヒールの音をカツカツいわせて近づいていった。 その音が、相手の横顔を間近に見た途端とまった。 ジャージの女は頼子の知っている人物だった。 「・・・里美」 頼子は思わず相手の名をつぶやいていた。 「え?」 呼ばれた相手は振り返り、頼子の顔をまじまじと見つめると、「・・・頼ちゃん?」 と、標準よりも大きな目を、ひときわ大きくした。 田村里美。 彼女は、頼子の中学時代の同級生だった。 親友といってもいいくらい、いつも一緒にいた時期もあった。 「久しぶりだねぇ、頼ちゃん。こっちに来てたんだ」 頼子と里美はお互い買い物袋を下げながら、商店を出た。 どうやら里美は、頼子がちょっと休暇を取って里帰りしているだけと思っているようだ。 「来てるって言うか、帰ってきたのよ。仕事辞めたの」 「へぇ」 里美の意外に小さな反応に、頼子は慌てて付け加えた。 「辞めないでくれって散々引き止められたんだけど、そろそろ自分の時間を持ちたくなったって言うか。30前に新しいこと始めたいと思って辞めたのよ。別に仕事が辛いとか、そんなくだらない理由で辞めたんじゃないの!」 頼子はそうまくし立てるように言ってしまってから、新しいことを始めるのになぜわざわざ田舎に帰ってきたのか、と里美が疑問に思いはしないだろうかと焦ったが、里美は深く考えなかったようで、「そうなんだ」と言っただけだった。 話を逸らそうと、頼子は里美の買い物袋の中を覗き込んで言った。 「里美のところも鍋? うちもスキヤキやるからって、母親にネギ買いに行かされてたのよ。お母さん元気?」 頼子は、中学時代何回か里美の家に遊びに行ったことがある。その母親の顔を思い浮かべながら聞いた。 「うん、元気よ。先週行ったら、ちょっと風邪引いてるとか言ってたけど」 「え? 里美家を出たの?」 里美の話し方に違和感を覚える。 「うん、出たって言うか・・・。私、結婚したの」 結婚・・・ 頼子が飯田に4年間望んでいたことだ。結局叶わなかったが。 頼子は平静を装って、おどけるように尋ねた。 「相手は誰なのよ〜。あたしの知ってる人だったりして〜?」 すると里美は一瞬黙り込み、言いづらそうに、 「・・・川口君なの」 と消え入りそうな声で言った。 その名前を聞いた途端、頼子の心は中学時代に帰った。 「コックリさん、コックリさん。いらっしゃいましたら鳥居の周りをおまわり下さい」 放課後の教室。 2、3人ずつが固まり、そこここから呪文のように同じような言葉が聞こえてくる。 頼子たちが中学生の頃、当時の学生の間にちょっとしたオカルトブームが起きていた。 中でも、ほとんどの生徒が一度はやったのが「コックリさん」である。 コックリさんとは、適当な大きさの紙の中央に鳥居のマークとその両脇にイエス、ノーの文字、紙の縁をぐるりと取り囲むように50音を書き込み、あとは10円玉を使用して行う、一種のおまじないのようなものだ。 10円玉を中央に置き、2人以上がその10円玉に指を乗せコックリさんを呼び出すと、誰も力を入れていないのに自然と10円玉が動き出し、さまざまな質問に答えてくれる。 頼子と里美も例に漏れず、毎日のようにコックリさんをやっていた。 尋ねることは他愛もないことで、次の日のテストの事だったり、アイドルの私生活の事だったりした。 頼子はもともとゲーム感覚でやっていたから、コックリさんの結果に、良くも悪くも大きなショックは受けなかった。 どちらかと言うと、里美のほうがのめり込んでいたようだ。 コックリさんが、「水回りが危険」といえば、プールの授業も休んだし、「方角が悪い」といえば、かなりの遠回りになっても、回り道をして帰宅していた。 里美はもともとオカルトチックなものに興味があったようで、そういった類の本を読み漁り、その中から得た知識を頼子に聞かせていたものだ。 「頼ちゃん。合わせ鏡の13枚目に、自分の死に顔が写るんだって」とか、「死人の枕元で猫が3回鳴くと、その人が生き返るんだって」とか、「夜中のトイレで剃刀をくわえて鏡を見ると、将来の結婚相手の顔が見えるんだって」などなど。その都度、キャーとかコワーイとか言いながら、二人ではしゃいだものだ。 そんなある日のことだった。 「ねぇねぇ、今日は何聞く?」 毎日コックリさんをやっていれば、いつかは質問事項も底をつく。 「じゃ、今日は里美の好きな人は誰ですかって聞いてみようかな〜」 今まで避けていた質問だった。というか、やろうと思っても里美が聞かせてくれなかったのだ。 まあ、それは頼子にも同じ事が言えるのだが。 「えー!やだあ。それだけはやめようよ〜」 予想通りの里美の反応だった。 「じゃ、里美の後に、あたしの好きな人も聞いていいから。それならいいでしょ」 と頼子は迫った。 それなら・・・と里美は不承不承頷いた。「頼ちゃんの好きな人も、絶対に聞くんだからね!」と念を押して。 早速紙を用意し、頼子はポケットから10円玉を出す。それに二人で指を乗せた。 「コックリさんコックリさん、いらっしゃいましたら鳥居の周りをおまわりください」 一瞬の間を置いて10円玉はスルスルと鳥居の周りをまわり出した。 「来たね」 頼子はそう言って里美の顔を見た。心なしか緊張しているように見える。「じゃ、聞くよ」 黙り込んでいる里美を横目に、頼子は質問を始めた。 「コックリさん、田村里美に好きな人はいますか?」 すると10円玉はイエスの方へを動いた。 「では、その人の名前を教えてください」 また10円玉はスルスルと動き出した。 最初の文字は「か」。続いて反対側へ動き「わ」。「く」と濁点に移動し、「ち」と続いた。 その後いくつかの文字を移動し、10円玉は動きを止めた。 川口光彦。それが里美の好きな人だという。 里美を見ると、うっすらと顔が赤くなっているのが分かる。どうやら当たりのようだ。 頼子は少なからず動揺した。 このあと頼子の番になったら、コックリさんが辿るであろう文字を、里美のときに辿られたからだ。 「へぇ、里美、川口君が好きなんだぁ」 「もうっ! みんなには言わないでよ?」 里美は照れを隠すように大きな声を出すと、「次は頼ちゃんの番だからねっ」 頼子はなんだか意地悪な気分になり、 「ね、川口君の好きな人は誰ですかって聞いてみない?」 と里美に持ちかけた。里美は慌てて、 「いいよ!そんなの。それより頼ちゃんの好きな人聞く番でしょ!」 と抗議の声をあげた。 頼子は構わず、 「コックリさん、川口君の好きな人を教えてください」 と質問を続けた。 「頼ちゃん!」 里美が怒って椅子から立ち上がろうとした。 「里美! 10円玉から指を離しちゃだめよっ。コックリさんに祟られるの忘れたのっ?」 頼子が鋭く言い放つと、里美は離しかけた指を10円玉の上にとどまらせた。 頼子は里美が諦めたのを見届けてから、 「コックリさん、川口君の好きな人は誰ですか? 名前を教えてください」 再度質問を投げかけた。 一瞬の間を置き、10円玉は再び動き出した。 10円玉が50音の前半の方、さ行に近づきそうになった時、頼子は指先に力を込め、無理矢10円玉の行く先を変えた。 そしてそのまま大きくカーブを描き、「よ」「り「」こ」と10円玉を移動させた。 里美の顔を見やると、蒼白になっていた。 しばらくの沈黙のあと、頼子は言った。 「うっそ。川口君ってあたしのこと好きだったの? 里美は何も答えず、コックリさんを終了させると、カバンを持って教室を飛び出して行った。 ちょっとやりすぎたかな、と頼子は思った。 コックリさんを全面的に信用している里美のことだ。光彦の好きな人は頼子だと本気で思ったことだろう。 まさか、里美が川口君のことを好きだったなんて・・・ 里美とは中学入学以来、一番の友人のつもりだったが、いつでもイニシアチブを取っているのは頼子であると自負していた。 その里美が、まさか自分と同じ人を好きだとは思ってもみなかった。 あのまま10円玉を滑らせていたら・・・ 10円玉がさ行に近づいた時のことを思い出し、頼子はぞっとした。 好きな人が同じというだけでもいい気分はしないのに、それを里美に取られたりしたら・・・そう思った時には、勝手に指に力が入り、自分の名前の方に10円玉を移動させていた。 その後も里美とは友達だったが、どこかぎこちない付き合いになってしまったように思う。 それを決定的にしたのは、中学3年のときに頼子が光彦と付き合い始めたことだった。 中学も3年になると、特に女の子は急に大人っぽくなり始める。 中でも、里美は目に見えて綺麗になっていった。 色白の顔に大きな瞳。華奢な身体つきは守ってあげたくなるような雰囲気を醸し出している。 事実、頼子が知っているだけでも、3人は里美に好意を持っている男子がいた。 そんな里美を見て、頼子は焦った。 このままでは光彦が里美を好きになってしまうのではないか? いや、はなから光彦は里美のことを好きだったのではないか? あの時、あのコックリさんをやった時、あのまま10円玉を放っておいたら、里美の名前を辿ったのではないか? 頼子の焦りはそのまま行動に移った。 学校帰りの光彦を待ち伏せ、告白をしたのだ。 最初、光彦は戸惑っていたが、頼子が抱きつきキスをするとすぐに応えてきた。 所詮中学男子、気持ちよりも身体の方が優先されたようで、光彦はそのままズルズルと頼子と付き合うような形に収まったのだ。 当時の中学生は、今ほど男女交際がオープンではなかったが、頼子と光彦の関係はすぐに学年中の知るところとなった。 その光彦との関係も、高校に入って間もなく、自然消滅という形で終わったのだが。 頼子は高校に入ってから同じ高校の先輩に熱を上げ、光彦も大体同じような理由で、二人とも会わなくなっていったのだ。 もちろん、だからと言って里美との仲が復活するはずもなく、それっきりとなっていた。 そんな里美と、中学卒業以来14年ぶりに再会したのだ。 しかも里美は光彦と結婚しているという。 頼子は、動揺を里美に気づかれないようにするのが精一杯だった。 気づいたら自分の家に帰ってきていた。里美とどうやって別れたのかも覚えていない。 あたしが、いくらしたくても出来なかった結婚を、里美がしている。 しかも光彦と。 そう思うと、頼子はいても立ってもいられなかった。 「えーと、じゃぁ、第一中学1年8組のプチ同窓会ということで、乾ぱーい!」 カラオケスナックに頼子と里美、光彦の姿があった。 あのあと頼子は里美の実家に電話し、里美の新居の電話番号を聞き出した。 そして、久しぶりなのだから光彦を交えて飲みに行かないか、と誘ったのだ。 里美はあまり飲める方ではないらしく、サワーを1杯頼みそれをチビチビと飲んでいた。 「へぇ。みどり銀行っていったら超一流じゃん。すごいところで働いてたんだなぁ」 ビール、日本酒と続き、今はウイスキーをすすっている光彦が上機嫌で言った。 「そんな事ないわよぅ。それにもう辞めたんだし〜。それより光彦こそどうなのよ。こんなかわいい奥さんもらっちゃってさ〜」 と、頼子も応酬する。こちらもかなりアルコールが入り、そろそろ呂律が怪しくなってくる頃だった。 「なんとか順調にやってるよ。ま、みどり銀行ほどメジャーな会社じゃねぇけどな。今度の人事で課長補佐に任命されることになったんだ」 「里美〜。いいダンナつかまえたね〜」 「ねぇ・・・」 里美は曖昧に相槌を打つと、グラスを口元に運んだ。 やはり中学のとき、頼子と光彦が付き合っていたことが引っかかっているのだろう。二人が談笑すると、上目遣いにチラチラと様子を伺ってくる。 そんな里美の様子に気づいていながらも、頼子には光彦との会話を止める気はさらさらなかった。 「あれ? 誰かのケータイなってない?」 3人がそれぞれにバックや上着のポケットをまさぐる。 「あ、私だわ」 里美が、ちょっと、と言って席を外す。店内では電波が届きにくいのだろう。話しながら店の外へ出て行った。 「いつ結婚したのよ」 頼子が光彦に聞いた。 「半年くらい前かな? 2、3年前にやった同窓会で再会して、ま、付き合うことになったんだけどさ」 光彦がタバコに火をつけながら答える。 「半年か・・・。あたしたちが付き合ってたのもそれくらいだったわよね」 「そうだなぁ」 光彦は大きく煙を吐き出すと、ふっと笑みをもらした。 「覚えてたの?」 頼子がいたずらっぽく尋ねると、 「当たり前だろ。ファーストキスの相手なんだから」 と声を立てて笑う。 「あたしだってそうよ」 頼子は熱っぽい視線を光彦に向けた。 光彦も笑うのをやめ、頼子の視線を受け止める。 お互い視線を外せずにいると、 「ごめんね〜」 と里美が戻ってきた。 「おう! 電話誰からだった?」 光彦がいつもの調子に戻って里美に話し掛ける。すると里美はちょっと眉根を寄せて、 「お父さんからだったの。ほら、うちのお母さん先週から風邪が長引いていたじゃない? どうやら肺炎を起こしかけているみたいで、さっき念のために入院したらしいのよ」 と電話の内容を光彦に説明した。 そうか心配だな、明日にでも・・・という光彦のセリフにかぶせるように、 「里美、すぐにお母さんのところに行ってあげた方がいいんじゃない?」 と頼子は言った。 「え、でも明日でいいってお父さんも言ってるし、そんな大袈裟なものじゃないから・・・」 里美はうろたえるように夫の顔を見る。頼子は構わず続けた。 「お母さんだってもう若くないんだから。大事を取って入院したとはいえ、心細いはずよ。娘の里美が顔を出してあげれば、お母さんだって喜ぶんじゃないかしら」 「それは、そうかも知れないけど・・・」 里美は頼子の方に顔を向けながら、それでもチラチラと光彦の方をうかがっている。 「ねぇ、光彦もそう思うでしょ?」 「うん、まぁ、な」 光彦はもごもごと口の中で呟くように答えると、新しいタバコに火をつけた。 しばらくためらっていた里美だったが、 「みっちゃんがそう言うなら・・・」 と帰り支度をはじめ、「遅くなっても今夜中に帰るわ。ミシェルが心配するから」 と何度も振り返りながら店を出て行った。 頼子は里美が出て行った出入り口の方を見ながら、 「ミシェルって誰?」 と光彦に聞いた。 「ああ、里美が可愛がってる猫だよ。結婚する前から実家で飼ってたんだけど、里美にしか懐いていないからって、ウチにもらってきたんだ」 「ふぅん」 頼子は興味なさそうに相槌を打つと、グラスに残っていたウイスキーを一気に傾け、 「・・・あたしたちも出ましょうか」 と光彦に声をかけた。「送ってくれるでしょ?」 もともとアルコールに強い頼子だ。この程度の酒で酔ったりしないが、店を出ると、 「なんか、酔っちゃったみたい。久しぶりに光彦に会えて嬉しくて飲みすぎちゃったのかな」 と光彦に寄りかかった。光彦がその肩を抱く。 店を出る前から、二人とも予想していた展開だった。 頼子が視線を上げると、光彦も潤んだ目で頼子を見下ろしていた。 二人の唇が急速に触れあう。中学のときのそれとはまったく違って、とても性急なものになった。 「頼子・・・」 やっと唇が離れたとき、呟くように光彦が頼子の名を呼んだ。 「光彦、抱いて・・・」 頼子がそう言い終わらないうちに、光彦が再び口付けしてきた。 翌日、目が覚めてみるとお昼近くだった。 枕元のケータイを見ると、メールの着信がある。光彦からだった。 『やべー、寝坊した! 会社にはギリギリセーフ!』 頼子は昨夜のことを思い出し、ふふっと笑みをこぼした。 8時過ぎに店を出た二人は、近くのホテルに入るとシャワーも浴びずに抱き合った。 会社を辞める前、最後に飯田に抱かれたのはもう3ヶ月以上も前の事だ。久しぶりのことに、身体が正直に反応する。頼子は貪欲に光彦を求め続けた。 その結果、家に帰り着いたのは、夜中の2時を過ぎていた。 光彦が帰ったとき、里美はどうしていただろう。 まだ母親の病院にいたか、もしくはすでに自宅に帰ってきていただろうか。 猫が待っているから、とか言っていたから、きっと帰っていただろう。 昔の恋人と会っていた夫を心配しただろうか。 そこまで考えて、頼子は再びベッドに倒れこんだ。 構うものか。光彦が上手く誤魔化したに違いない。 それにしても・・・ 「あたしって、根っからの不倫体質なのかしら」 と、自分の運命を軽く呪いつつ、これから始まる光彦との時間を想像して、ほくそえむ頼子だった。 そして、やはり頼子の想像した通りに事は運び出した。 あのカラオケスナックの夜から3日もたたないうちに、光彦から連絡があったのだ。 「里美の母親が入院してたろ? 今日退院してきたんだ。でもすぐに普通どおりの家事をさせるのも心配だからって、里美が今晩実家に泊まってやる事になったんだ。だから今夜会わないか?」 光彦の声は弾んでいた。頼子も弾んで答える。もちろんイエス、と。 仕事帰りの光彦と途中で待ち合わせ、その日はホテルではなく光彦のマンションに泊まることになった。 「ふ〜ん。いいところに住んでるじゃない」 3LDKのリビングに通され、コーヒーをすすりながらキョロキョロと部屋の中を眺める。 「こんな田舎だからな。3LDKっていっても、安く借りられる」 光彦が自分の分のマグカップを手に、ソファの頼子の隣に腰掛ける。「そんなことより・・・」 「ちょっと待ってよ」 頼子は肩を抱き寄せてくる光彦をスルリとかわした。「こんなところでやる気? 寝室に連れて行って」 8畳ほどの寝室の中央にダブルベッドが置かれていた。 そして、そこここに里美がいた。 おそらく里美の手作りであろう枕カバーにベッドカバー。壁にはカントリー調のパッチワークキルト。部屋の片隅に置かれた安楽椅子には、枕カバーやベッドカバーと同じ生地で作られたクッションが置かれている。 部屋は里美一色だった。 一瞬、このベッドの上で抱き合う里美と光彦の姿が脳裏をかすめ、ベッドを凝視したまま頼子は立ち尽くしてしまった。 すると、背後から忍び寄ってきた光彦が頼子を抱きしめて、耳元でささやいた。 「・・・妬いてるの? 今、里美とのコト、想像してたろ」 「別に。今、光彦とこうして抱き合ってるのはあたしだもの。里美なんか関係ないわ」 少しムキになって言い返すと、身をよじって光彦にキスを送った。 関係ないとは言いつつも、やはり里美のことが気になってしまう。 光彦の身体の重みを心地よく感じていても、ふと横に目をやると、里美お手製のグッズの数々が、これでもかと襲い掛かってくる。 罪悪感などというものではない。 今、光彦に抱かれているのは確かに自分だが、光彦の隣にいる権利を持っているのは、悔しいけど里美なのだと思い知らされてしまうのだ。 飯田と付き合っているときも、決して表舞台には立てなかったが、ここでもまた日陰の女を演じてしまうのだろうか、と。 里美は部屋の中を見ないように眼を瞑って、頭の中から里美を追い出した。 情事のあと、間もなく光彦は寝息を立てはじめた。 しばらく光彦の寝顔を見つめていた頼子だったが、ふと思いつき、ベッドとマットの間に右手を伸ばす。 それからベッドを降りようとしたとき、足元を何かがサッとかすめ、頼子は短い悲鳴をあげた。 よく見ると、ベッドの足元に黒い猫がちょこんと座って、頼子を見上げていた。 これが里美が可愛がっている猫なのだろう。確か、ミシェルとかいった・・・ 一体、いつからこの部屋にいたのだろう。 寝室の扉は閉じられている。ということは、頼子たちが寝室に入ってきたときに一緒に入ったか、もしくはその前からずっとこの部屋にいたのか。 頼子は猫を避けるように大きくまわって寝室を出てキッチンへ行くと、勢いよくコップに水道水を注ぎ入れ、渇いた喉に流し込んだ。 翌朝、頼子が目を覚ますと、すでに光彦は起き出していた。 「悪いんだけどさ。里美が何時に帰ってくるかわかんねぇから、早めに部屋を出てってくれないか」 今日は土曜日で仕事は休みのはずだ。頼子は一日光彦と一緒にいられると思っていたのだが・・・ 「いいわ。あたしも今日は用事があるから、起きたらすぐ帰るつもりだったし」 自分の気持ちはおくびにも出さず、努めてさっぱりした感じに返事をする。 「そうか」 明らかに安堵の色を示し、光彦はいそいそと2つのマグカップを洗い始めた。 頼子の跡を消しているのだ。 そんな光彦の姿など見たくない頼子は、さっさと化粧を済ませるとマンションを出た。 空はどんよりと曇っていた。 まるで、今の自分の心の色と同じだ、と頼子は思った。 それからも、週に2回くらいのペースで頼子と光彦は会っていた。 が、そんなことがいつまでも里美にバレないはずがない。 そしてその日は意外と早くやってきた。 頼子は、光彦との関係が始まって1ヶ月近くがたったころ、例の商店でまた里美と遭遇したのだ。 お茶でもしない?という里美の提案で、里美のマンションに行くことになった。 「へぇ、良い所に住んでるじゃない」 はじめて光彦に連れられて来たときと、同じセリフを里美に投げる。 「割と広いでしょ? でも田舎だから結構安く借りられるのよ」 里美の返答が光彦と同じだったことに、夫婦の絆らしきものが垣間見えて、頼子はわずかに顔を歪めた。 「ありがとう」 里美から紅茶のカップを受け取り一口すする。 足元で気配を感じてそちらを見やると、先日の黒猫がいる。 「あ、こらミシェル! お客様を驚かせてはだめよ」 里美が黒猫を抱き上げようとすると、するりと床に降り立ち、寝室の方に向かいかける。 「ミシェル? どうしたの?」 ミシェルは2、3歩進んで、「ついて来い」というように里美を振り返った。 里美はミシェルに連れられて寝室に入っていった。 しばらくして戻ってきた里美の顔は青ざめていた。 「どうしたの?」 先日、光彦と抱き合っているとき足元にいた黒猫が、里美を連れて寝室に入っていった。ある程度予想はしていたが、頼子はあえて聞いた。 「・・・頼ちゃん、これ・・・」 広げられた里美の手のひらには、赤い石のついた小さなピアスが1つのっていた。 あの夜、光彦が寝たあと、ベッドとマットの間に頼子が忍び込ませていった、頼子のピアスだった。 いつか里美に発見されるだろう事を期待して置いて行ったのだ。 「ミシェルが寝室のベッドの下で見つけてきたのよ」 「ふぅん」 里美は手の中のピアスを、まるでまがまがしい物でも見るような目つきで睨みつける。 「里美、ピアスは?」 「私、金属アレルギーがあるからピアスは出来ないのよ」 とピアスから目を離さない。「誰か女が来たんだわ」 頼子は紅茶のカップを口に運んだ。 「ベッドの下に落ちてるなんて・・・。みっちゃんが連れ込んだとしか考えられないわ」 「・・・里美」 頼子は手にしていたカップをテーブルの上に置くと、ソファから立ち上がった。 そしてセミロングの自分の髪を耳元ですくって見せた。左耳に、赤い石のついたピアスがついている。 右耳のそれはついていない。 「・・・頼ちゃん? どういう事?」 里美の蒼白だった顔が、さらにどす黒く変わっていく。「頼ちゃんのピアスなの?」 頼子はちょっと困った顔をすると、 「ごめんね、里美」 と小首をかしげた。 頼子は、飯田のときと同じような修羅場がやってきた、と思った。 しかし、今回は負ける気がしない。 そうよ、あの時だって。もっとあたしが強気に出ていれば、奥さんからあの人を奪えたかもしれないのに・・・あたしだって幸せになっていたのに! もう日陰の女でいるのはまっぴらだ。今度こそ幸せになるのだ。 「里美、光彦をあたしに返してよ」 「頼ちゃん、何言ってるの? 頼ちゃんがあたしからみっちゃんを奪おうとしてるんでしょ」 頼子は一歩里美に近づいて言った。 「忘れちゃったの? 中学のときにやったコックリさんで、光彦の好きな人はあたしだって出たじゃない」 「それは・・・」 「それに、あたしと光彦は付き合っていたこともあるのよ」 そんな昔のことを、と反論してもよさそうなのに、里美は黙って聞いていた。 これは本当に、里美から光彦を奪うのは容易いことかもしれない。 頼子は調子にのって続けた。 「時間をあげるから、今夜光彦が帰ってきたらよく話し合うことね。今後の手続きとか色々あるでしょ」 頼子は買い物袋とバックを手にすると、一人立ち尽くす里美を部屋に残したまま、玄関から出て行った。 マンションを出て空を見上げると、前回来たときと同じように空はどんよりと曇っていた。 そう言えば、夜半から雪になるかもしれないと天気予報が言っていたっけ。 しかし、心の中はまったく違う。とても晴れ晴れとした気分だ。 とうとうあたしにも陽のあたる時がやってきたのだ! 家に帰り着くと、母が不機嫌そうに言った。 「一体、どこまで買い物に行ってんのよ。あんたがさっさとだしの素買って来ないから、味噌汁が作れないじゃないの」 「ほら、買ってきてあげたわよ」 いつもだったら屁理屈のひとつも言うところだが、今日は機嫌がいい。多少の母の嫌味にも笑顔で返せると言うものだ。 いつもと違う、素直な娘の様子に調子を狂わされた母は、 「あんたも、仕事しないんなら少しは家のこと手伝ってちょうだいよ」 とエプロンを押し付けた。「結婚したときに、料理ぐらい作れないと恥ずかしいわよ」 「そうね」 「何よ。今日はいやに素直じゃないの。気味が悪いわね」 「もうすぐ結婚して、この家出てってあげるわよ」 頼子はエプロンをしながら上機嫌で言った。「味噌汁の作り方、教えてよ」 その夜、頼子が風呂から上がり自分の部屋でくつろいでいると、光彦から電話があった。 「ヤバイよ。もしかしたら里美にバレたかも知れない」 開口一番がそれである。 頼子はちょっと眉根を寄せると、 「なんか言ってきたの?」 「いや・・・。でもなんか態度が変っていうか。ちょっと目を離した隙に、俺のケータイチェックしてたんだよ」 光彦との連絡はほとんどケータイで取っている。中にはきわどい内容のメールもいくつかあるはずだ。 「じゃ、バレたんじゃない。あたしが相手だってことも」 「里美の番号は、適当に作った男の名前で登録してあるから。メールも毎回削除してるし、ケータイから頼子のことがバレることはないはずなんだよ」 なんの遠慮もなくぬけぬけと言う。 飯田のときもそうだった。 男というのは、なぜ妻には罪の意識を持つのに、愛人にはそれがないのだろうか。 別れる予定もない妻がいながら情事を重ねておいて、こちらが傷つかないとでも思っているのだろうか。 いや、ともに悪事をはたらく共犯者、とすら思っているのかもしれない。 「とにかく、ちょっと会うのを控えた方がいいかもしれないな」 「ちょっと待ってよ!」 思いがけない光彦のセリフに頼子は慌てた。 里美はなぜか、自分とのことを光彦には問い詰めていないらしい。 ケータイをチェックしていたというから、自分なりに事実を確認して、とでも思っているのだろうか。 「確信は持ってないんでしょ?里美。だったら、お前の気のせいだよとか何とか、誤魔化せるじゃない」 「でも、いつかバレるだろ」 「バレたら、その時はあたしと一緒になれるじゃない」 頼子は思い切って言ってみた。 頼子は今まで光彦に、結婚とか将来のこととかの話をしたことがなかった。話すのを我慢していたのだ。 すぐに、そうだな、と言う返事が返ってくると思っていたのに、電話の相手は沈黙した。 「光彦?」 「・・・いや、お前そこまで考えてたのかよ」 思いがけない光彦のセリフだった。 「・・・何よ、どういう事? あたしとの事は遊びだったとでも言うの」 「違うよ。お前のことは本当に好きだよ。愛してる。でも・・・」 光彦は言葉尻を濁した。その先を頼子が続ける。 「今の家庭を壊す気はないって事?」 「・・・ああ」 頼子は、先ほどまでの幸せな気分が、すぅっと音を立てて引いていくのが分かった。 「あたしとは別れるってことね」 「いや、そんなつもりはない」 光彦は慌てて言った。「出来れば今までみたいに会いたいよ」 なんて調子のいいことを言っているのだろう。 普段は和食を食べているが、たまには洋食だって食べたいんだ。そんな程度に聞こえる。 「とにかく、最近帰るのが遅い日が続いていたりしたから怪しまれたと思うんだ。だから、しばらくの間ちゃんと帰って家にいれば、あいつだって変な疑い持たないで安心すると思う。俺だって頼子と別れたくないんだ。近いうちに必ず連絡するから」 そう言って、光彦はそそくさと電話を切った。 窓の外では、予報どおり雪がちらつき始めていた。 翌朝、頼子が重たい頭でリビングに起き出して行くと、出勤前の父がソファで朝刊を読んでいた。 母が朝食の準備をしながら、 「ちょっと、頼子」 と小声で娘を呼んだ。 「なによ」 「あんた、昨日妙なこと言ってたけど、そういう相手がいるんなら事前に話しておいてよね」 嬉しそうな、ちょっと困ったような顔をしながら、母が耳打ちしてくる。 「何の話よ」 頼子は、訳が分からず聞き返した。母はじれったそうに、 「あんた昨日、結婚するとか何とか言ってたじゃない」 と早口でまくし立てた。 そう言えば、昨日里美のマンションから帰ってきて上機嫌の時に、母にそんなことをもらしたっけ。 まさか半日でここまで状況が変わるとは思ってもみなかった。 「事前に話しておかないと、お父さんビックリしちゃうかも知れないからね。お母さんから話しておいてあげるから」 すでに娘の結婚が決まったと勘違いしている母は、上機嫌でいる。 頼子は急に昨夜の光彦との会話を思い出し、 「うるさいわねっ。お母さんに関係ないでしょっ!」 と大声で怒鳴り、そのまま自分の部屋に駆け戻った。 背後で、「頼子っ」と母の声がしたが、頼子は構わず部屋のドアを閉めた。 その日の夕方、頼子のケータイに里美から連絡が入った。 話がしたいから、鈴掛神社に来て欲しいと言う。 頼子はコートにマフラーをして家を出た。 昨夜降った雪は大した積雪ではなかったようだが、それでも道の端っこや、誰も通らない所などにはまだ3センチほど残っていた。 鈴掛神社は頼子の家から歩いて10分ほどのところにある、小さな神社だ。 周りをクヌギやナラの木に囲まれた、ちょっと小高い丘の上に建てられている。もともとは誰か、昔の殿様か何かの墓だったらしく、前方後円墳の形をしている。 地元では安産の神様だと言われているが、効果のほどを頼子は知らなかった。 鳥居をくぐり、長い石段を上がって行くと、50メートルほど先に小さな社が見える。その後ろは崖になっているため、頼子たちが住んでいる町がよく見渡せた。 中学に入学したばかりの頃、よく里美と一緒にこの崖っ縁から意地悪な先輩の悪口を叫んだものだ。 社に近づくと、階(きざはし)に里美が腰掛けているのが見えた。 社のまわりは、久しぶりに積もった雪で遊ぼうとした子供たちの足跡がたくさんついていた。 「・・・話って何よ」 頼子が口を開く。「寒いんだから、さっさと済ませて・・・」 「頼ちゃん、みっちゃんと別れてよ」 頼子のセリフに被せるように里美が言う。「みっちゃんは、私の夫よ」 里美は階から降りて、さらに頼子に詰め寄った。 「中学の時付き合ってたのなんて、そんな昔の話もう無効よ。それに、昨日みっちゃんのケータイ見たけど、頼ちゃんとの痕跡なんて、どこにもなかったわよ」 「隙あらば夫のケータイを盗み見てやろうって奥さんがそばにいるのよ。光彦がケータイに、あたしとの事がバレるようなもの、残しておくわけないじゃない」 ケータイを盗み見たのは事実だ。里美は唇をかんで俯く。 「大体、昨日光彦から電話があって言ってたわよ。あたしと別れる気はないって。頼子のこと愛してるよって」 「うそよ、そんなの! だって昨夜は私、みっちゃんと・・・」 そこまで言って、里美は口をつぐんだ。 「抱いてもらったの? 光彦も大変ね。妻の疑惑を晴らすために、奉仕してあげたんじゃないの?」 里美は顔を真っ赤にして叫んだ。 「失礼なこと言わないでよっ。みっちゃんは私だけ・・・っ」 「里美だけじゃ満足できないから、あたしと寝たんじゃない」 頼子は里美に背を向けると、「里美こそ、光彦と別れてよ。もともと光彦とあたしはコックリさんも言うとおり、惹かれあってたんだから」 「みっちゃんは私のものよっ」 里美は体当たりをするように、頼子に迫ってきた。 「何するのよ! 転んだら危ないじゃない!」 頼子は里美の手を払った。里美は泣きじゃくりながら、 「私、中学の時コックリさんに、みっちゃんが頼ちゃんを好きだって言われても、諦められなかった。だから二人が付き合い始めたとき、本当に胸が裂けるかと思うほど苦しくてたまらなかった」 と頼子に詰め寄る。 「ちょっと痛いじゃない! 放してよ」 里美は、見た目からは想像もつかない力で、頼子の両の肩をつかんでくる。 「卒業してから、二人が別れたことも知ってたけど、何も出来なかった。もう諦めようと思ってた時に、同窓会でみっちゃんに再会したの。みっちゃんの顔を見たらやっぱり諦められなくて・・・」 里美はそこでいったん言葉を詰まらせると、「頼ちゃんのことは気になったけど、もう東京に行っちゃったんだしと思って、告白したわ。OKをもらったときはすごく嬉しかった」 「・・・知らないわよ、そんな事!」 「でも、みっちゃんと付き合うことになっても、ときどき、中学の時の片思いしていた時の気持ちを思い出して、苦しくなるときがある。みっちゃんが頼ちゃんと付き合ってたときの事を思い出して・・・」 「放してったら!」 「今度は私がみっちゃんと幸せになる番よ! 頼ちゃんは邪魔しないでよっ!」 里美は頼子の肩をがくがくと揺さぶった。 ・・・今度は私が幸せになる番? それはこっちのセリフだ。 今まで4年間も不倫相手に振り回され、結局捨てられたのだ。 今度こそと思った相手にも、今の家庭を壊す気はない、と明言された。 一体あたしが何をしたと言うのだ。そんなに不相応な幸せを望んでいるわけではない。 あたしはただ、普通の幸せが欲しいだけだ。 普通に恋をして、普通に結婚をして、周りのみんなから祝福されたいだけだ。 それが、どうしていつもこういう結果になってしまうのだ。 頼子は揺さぶられる頭の中で叫んでいた。 「この泥棒猫! みっちゃんは私の・・・っ」 「放してって言ってるでしょっ!!」 なおも執拗に肩を揺さぶり続ける里美を、頼子は思い切り突き飛ばした。 すると里美は2、3歩後ろによろけて、たたらを踏んだ。 「あっ」 「っ! 里美っ、危ない!」 と叫んだときには遅かった。 社の裏手にも、まだ雪が残っていた。その雪に足を滑らせ、里美は崖っ縁から姿を消した。 どれくらいの間、そこにいたのか分からない。ただ頼子はその場で震えていた。 その震えが、寒さから来ているのではない事は確かだった。 里美の遺体は翌朝発見された。 鈴掛神社の周りをロードワークしていた、高校の陸上部の生徒が見つけたのだ。 頼子は家に閉じこもって震えていた。 母が近所の人から聞いた話では、どうやら事故死と警察は断定したようだ。 どうして事故死とされたのか頼子は不思議だったが、それも母の話で納得した。 「近所の奥さんが、昨日の夕方神社の方へ行く里美ちゃんを見かけて声をかけたらしいのよ。そしたら、飼っている猫が家を出たまま帰ってこないから探しに行くって言ってたんですって。その猫、よく鈴掛神社の方に迷い込んでいたらしいから」 猫を探しているうちに雪で足を滑らせ、転落したのだろうという事になったのだ。 里美の葬儀は町の集会所で行われることになった。 頼子は行きたくないと言ったのだが、 「中学の時、あんなに仲が良かったじゃない。最後のお別れなんだから、行ってきなさい」 と母に背中を押されるようにして、通夜に出向く羽目になった。 集会所には、弔問客がちらほら残っている程度だった。もう時間も遅いから、みんな帰ったのだろう。 やはり、里美には会えない。帰ったほうがいい。 頼子がそう思い、踵を返しかけた途端、 「頼子!」 と光彦に声をかけられた。 「わざわざ来てくれたのか。ありがとうな」 光彦も今日ばかりは神妙な顔になっている。「こんな事になって、俺も動揺してるけど・・・。最後に里美に会ってやってくれるか?」 集会所の中の、6畳と8畳の二間を使って、通夜会場が設けられている。 通夜や告別式の時、意外と喪主や親族にやることは少ない。弔問客も帰った今、光彦や親族たちは6畳間の方で、お清めの酒を振るまわれていた。 里美はまだ棺には入れられておらず、8畳間の祭壇の前に、北枕に寝かされていた。 里美の枕元に、座布団が一枚置かれている。 きっと弔問客は、ここでそれぞれ里美にお別れの言葉を述べていたのだろう。 光彦に促され、その座布団に座る。 光彦は親族の相手をせねばならないため、すぐに隣の部屋に行ってしまった。 隣の部屋との間のふすまは、半分だけ閉じられていた。 頼子はお線香をあげ、手を合わせた。 布団に寝かされた里美は、少し怒ったような顔をして目を閉じている。死因は後頭部強打で、顔や身体は、ともすると生きているのではないかと思えるほど、綺麗だった。 何を言えばいいのだろう。 里美との最後のやり取りが思い起こされる。 あんな汚い罵り合いが、お別れの言葉になってしまうのだろうか。 思いがけず、頼子の瞳に涙が込み上げてきた。 「ごめんね、里美・・・」 気づくと、今まで隠してきた事を話し出していた。 「あたしも光彦のことが好きだったのよ。あのコックリさんをやった時、里美の好きな人が光彦だって出て、あたし焦っちゃったの。その後、光彦の好きな人聞いたでしょ? あの時あたしの名前を10円玉が辿ったのは、コックリさんの力じゃないのよ。あたしが自分で動かしたの」 ごめんね、里美。 何回謝っても許してもらえないかもしれないけど、ごめん。 頼子がはらはらと涙を流していると、いつの間に来たのか、黒猫が頼子の隣に姿勢よく座っていた。 「ミシェル? おいで」 と手を伸ばしたが、ミシェルは短くニャニャニャと鳴くと、隣の部屋の光彦のそばに行ってしまった。 光彦はミシェルのあごをなでると、自分の皿から刺身をつまんでミシェルに与えていた。 こうして光彦を見てみると、普通の一人の男性にしか見えない。 なぜあんなにしてまで、里美を死に追いやってまで奪い合っていたのか、分からなくなってしまった。 頼子は、今夜はそろそろ辞去しようと思い、もう一度里美に手を合わせようと振り返った。 その瞬間、頼子は全身に冷水をかけられたように凍り付いた。 里美の目が開いている。 しっかりと見開かれ、じっと頼子のことを見つめていた。 そして、布団の中で組まれているはずの手がもぞもぞと動き出して、畳の上をズズッズズッと頼子の方に這ってきた。 頼子は声も出せずに、ただじっと里美の手を見ている事しか出来なかった。 じわじわと近づいてくる里美の手を見つめながら、里美の、中学のときのセリフを思い出していた。 『合わせ鏡の13枚目に、自分の死に顔が写るんだって』 『夜中にトイレで剃刀をくわえて鏡をのぞくと、将来の結婚相手が見えるんだって』 『死人の枕元で猫が3回鳴くと、死んだ人が生き返るんだって・・・』 ―――絶対に、みっちゃんは渡さないわ・・・ 里美はそう言うと、頼子の膝をがしっと力強く握ってきた。 「きゃあぁぁぁっ!」 頼子は悲鳴を上げていた。 「頼子? どうしたっ」 隣の部屋にいた光彦が、悲鳴を聞きつけてやってきた。 思わず光彦にしがみついて、ぶるぶると震える。 「どうしたんだよ」 と言う光彦の声に、恐る恐る目を開け、里美の方を振り返る。 里美は先程と同じように、固く瞳を閉じたまま横たわっていた。もちろん、手も布団の中で組まれているままだ。 一体今のは、なんだったのだろう。 里美に対する罪悪感から見た、幻覚なのだろうか。 しかし、今聞いた、里美の怨念のこもった声が、耳について離れない。 『絶対に、みっちゃんは渡さないわ・・・』 その言葉を思い出し、慌ててしがみついていた光彦の腕から離れる。 気づくと、真冬だと言うのに全身にびっしょりと汗をかいていた。 「・・・ごめん、あたし帰る」 頼子は、やっとそれだけ言うと、バックを手に逃げるように玄関に向かった。 光彦が追いかけてきて、 「落ち着いたら、連絡するから」 と頼子に言ったが、頼子は振り返りもせずに集会所を後にした。 光彦から連絡があったのは、葬儀が終わって2週間後の事だった。 しかし、通夜の恐怖が忘れられず、頼子はとても光彦と会う気にはなれないでいた。 それでも、再三かかってくる電話に、とうとう会わざるを得なくなってしまい、ある日の夕方喫茶店で光彦と会うことになった。 光彦は頼子の顔を覗き込んで言った。 「どうしたんだよ、頼子。具合でも悪いのか?」 悪い。 そう言って、頼子はこの場から立ち去りたかった。 「里美のことは可哀想だと思うけど、事故だったんだからしょうがないじゃないか」 光彦は深く椅子に腰掛け、タバコをふかした。 「でも、頼子がそんなに里美に気を使うとは意外だったな。いや、里美が死んで喜んでるとは言わないけど、これで俺たち、誰に遠慮することなく会うことが出来るんだぜ?」 頼子は俯いて、光彦から目を逸らした。 「なんだよ。変なやつだなぁ」 光彦は訝しげに頼子を見ると、しきりに首をひねった。 「まぁ、いいや。ところで今日これからどうする?」 と、熱い視線を送って頼子を誘ってくる。 光彦は気づいていないのだろうか? 頼子はそろそろと、視線を光彦のすぐ後ろに送る。 そこには里美がいた。 背後から光彦に抱きつくように、光彦の首に腕を絡めている里美が。 あの、寝室でピアスを見つけ、それが頼子のものだと分かった時のように、どす黒い顔色をして。 そして、言うのだ。 『みっちゃんは私のものよ。誰にも渡さないわ・・・』 |
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