ひとつ屋根の下   第7話  故郷D

「1番安い部屋でいいです」
窓口がすごく小さいカウンターの、その奥に座っているおばさんに伊吹が声を掛ける。
あたしはドキドキしながら……本当に心臓が壊れちゃうんじゃないかってくらいドキドキしながら伊吹の後ろに隠れていた。
カウンターの奥からおばさんがチラリとあたしの方を見る。慌てて下を向いた。
「……料金は先払いだから」
と言っておばさんは伊吹にカギを渡した。
伊吹はお金を払うとカギを受け取り、スタスタと階段の方に歩いていく。あたしは小走りでそのあとをついていった。
「ここか」
3階の奥から2番目の部屋のドアに伊吹がカギをさす。ギィ、と安そうな音を立ててドアが開いた。
「!!!」
中に入って固まってしまった。
時間が経ってくすんでしまった淡いピンク色の壁紙に包まれた部屋。
窓際にある安そうなキャビネットの上には小さなテレビ。
入ってすぐ右にある扉は多分ユニットバスかなんか。
そして、部屋の中央に……大きなベッドがっ!!
ほかに座るとこがなくて、伊吹はどさりとベッドに腰掛けた。
でもあたしは動くことすらできなくて、ドアの前に立ち尽くしていた。
「……座れば」
伊吹が視線でベッドの上を示す。
「い、いいいいっいやっ! けっこうですっ!!」
あたしは大慌てで手を振った。
なんで…… なんで伊吹とこんなところにっ!!!
あのあと伊吹と2人で、さんざん寒さをしのげそうなところを探した。
けれど、やっと見つけたファミレスは1時で閉店しちゃうっていうし、ビジネスホテルは観光シーズンだからか満室だし、旅館なんか高くて泊まれないしで……
「……もう、こんなとこしかねーな」
って……
なんでラブホしかないのよ―――ッ!!!
心の準備、出来てないんですけど―――ッ!!!
あたしがいつまでもドアの前で突っ立っていたら、
「なに意識してんだよ。バカじゃねーの」
と伊吹は呆れた顔をした。「ほかに行くとこねーんだから仕方ねーだろ」
「で、でも……っ」
「なんもしねぇ……つか、そもそもなんもする気ねぇから安心しろ」
と伊吹はベッドに寝転がった。「お前こそ、オレを襲うなよ?」
伊吹は寝転がった体勢でニヤリと笑った。
「な、なんであたしがっ!!」
「だってお前オレのこと好きだろ。身の危険を感じるのは、この場合オレだよな?」
「〜〜〜襲いませんっ!!」
あたしはドスドスとベッドに近づくと、わざとドスンと反対側に座ってやった。
「おー、重量感!」
と伊吹がからかう。
「うるさいっ!!」
「安そうなベッドだし、壊すなよ」
「壊れるほど重くないもんっ!」
「どーだかな」
伊吹はいじわるそうに笑ってそれから目を閉じた。
あたしもなにもしゃべることがなくて(ていうか出来なくて)黙っていた。
けど……
沈黙が耐えられないんですけど―――!!
だってだって、曲がりなりにもラブホだし!
そこに好きな人と2人っきりだし!
これで緊張しない女子なんかいないよ―――っ!!
ちょ、ちょっとひとりになって落ち着きたい……
「シャ、シャワーとか……浴びてくれば?」
伊吹を部屋から追い出すためにそんなことを言ったら、伊吹は薄く片目を開けて、
「キモいこと言うな。オレにシャワーなんか浴びさせて、どうするつもりなんだよお前は」
とあたしを睨んだ。
「ッ!! ち、違うっ!! あたしはそんな意味で言ったんじゃっ」
伊吹に指摘され、自分の発言に慌てた。
「エロ!」
「違うったらっ!!」
ムキになって否定したら、伊吹はくっくっと笑った。そしてそのまままた目を閉じる。
「…………」
な、なんだ…… からかっただけか。
ホッと胸をなで下ろしながら、ベッドに寝転がる伊吹を見下ろした。
……伊吹は全然緊張してないのかな。
簡単にベッドに寝転がったり、あたしのことからかったり、いたって普通に見えるけど……
……っていうか、普通すぎない!?
ラブホだよ、ラブホ!!
いくらあたしのことなんとも思ってないからって、ここに入ったほとんど全員が、エッチ目的で来る場所だよ!?
あんたが今寝てるそのベッドだって、一体何百人……いや、何千人がエッチしたか分かんないベッドだよ!?
なんでこんな場所で普通でいられるのよ……
―――…まさか。
まさかだけど…… 慣れてる?
もしかして伊吹は、ラブホに入るの、初めてじゃ……ない?
そう思ったら、急に悲しくなってきた。
いや、伊吹はカッコイイしモテるし、彼女だっていたことあったわけだし、ラブホに行ったことがあっても不思議じゃないけど……
でも……なんか、やだ……
「……なに。お前まさか、泣いてんの?」
伊吹が寝転がったまま声を掛けてくる。あたしはそんな伊吹から顔を背けて、
「べつに……泣いてなんか、ないけど……」
とベッドの端に寄った。
伊吹は少しだけ身体を起こしてあたしを見たあと、
「……泣くほどイヤなら、出るか」
とスプリングを揺らして立ち上がった。
「違うっ! そうじゃなくてっ!」
伊吹はベッドの横に立ったままあたしを見下ろした。
「そうじゃなくて……」
「……なに」
伊吹がセリフの先を促す。あたしは自分の足元に視線を落として、
「……伊吹が慣れてる、から」
とポツリと言った。
「は? ……慣れてるって、なにに」
伊吹が訝しげな声をあげる。あたしは思い切って、
「…………ラブホ」
と言った。
「はぁっ!?」
あたしのセリフに伊吹は半ば怒鳴るように、「なんでそんな話になるんだよっ!?」
「だってっ」
あたしも伊吹の方を振り向いて、「だってミョーに普通じゃん! 慣れてるってことでしょっ!?」
と怒鳴った。
「おまえ相手に緊張してる方がおかしいだろっ」
伊吹がムキになって言い返してくる。
「受付だってスムーズに済ませてたしっ!」
「受付のババアの言うとおりにしてただけだろっ? どこがスムーズなんだよっ!?」
「スムーズじゃんっ! 部屋のカギあけるときだって震えてなかったし、気軽にベッドに座るしっ!」
「だからっ、なんでおまえ相手に震えなきゃなんねーんだっつーの! ベッドに座ったのだって、ほかに座るとこなかったんだからしょーがねーだろっ!!」
おまえ相手、おまえ相手って……
じゃあ、相手があたしじゃなかったら、緊張してたってことっ!?
「じゃあ、彼女と入ったときはっ?」
「は?」
「元カノのコトミと入ったときは緊張したっ!? コトミと入ったときはその気になったんでしょっ!?」
伊吹が心底戸惑った顔になる。
「……ちょっと待て。なんでコトミが出てくるんだよ。カンケーねーだろ!?」
「カンケーなくないっ! 伊吹はコトミとラブホに行ったんでしょっ!? だから慣れてるんでしょっ!?」
興奮するあたしを伊吹はちょっとのあいだ見つめて、
「……行ってねぇ」
と言った。
「ウソっ! 今さらウソつかなくたっていいよ!」
伊吹はちょっと目を伏せて溜息をついたあと、
「だからぁ、コトミとラブホなんか行ってないって」
と前髪をかき上げた。「……つか、誰とも行ってない」
「ウソッ!!」
「ウソじゃねーっつーの。しつこいね、お前は」
そう言って伊吹は再びベッドに座る。「……今日が初めてだっつーの」
……コトミとはラブホに行ってない?
ラブホは今日が初めてって……
「え――――――っ!? ウソでしょっ!?」
思わずベッドから飛び上がるほど驚いた。
伊吹はムッとした顔をして、
「……なんだよ。わりーのかよ」
「や、そーじゃなくてっ」
伊吹はモテるから、もう絶対そういう経験してると思ってたけど……
……あ。
「……そっか。ラブホは初めてってだけなんでしょ?」
「は?」
「だから、コトミとか他の?女の子の家とかでしてたってことでしょ?」
伊吹が難しい顔になる。
「……なにを」
「エッチ……あいたっ!」
言い終わるのと同時に頭を叩かれた。「いったーい…… なんで叩くのっ?」
「お前がバカなこと言ってっから」
伊吹はまだあたしを叩いた手をおさめない。「次またバカなこと言ったら……」
「言いませんっ!」
あたしは慌てて口を押さえた。叩かれた頭がジンジンする。
言わないけど、気にはなるよ。……好きな人のことだし。
あたしはじっと伊吹を見つめた。伊吹はそんなあたしをちょっと見たあと、視線をそらして、
「だからぁ、誰ともしてないんだって」
と面倒くさそうに言った。
「……ホント、に?」
「本当だよ。ウソついてどうすんだよ」
「信じていいんだよ、ね?」
「しつこい」
……どうやら、本当に本当みたいだ。
けれど……やっぱり信じられない。
だって、伊吹だよ? みんなからモッテモテの伊吹だよ?
もうとっくに経験済みだと思うじゃん……
「……なんでしなかったの? その……コトミとかと」
「べつに。そういうシチュエーションになんなかったし、とくにしたいとも思わなかった」
淡々と話す伊吹。全然隠すつもりはないみたいだ。
また思い切って聞いてみる。
「じゃあ、コトミとはその……キスまでしかしてないってこと?」
「それもしてない」
「ッ!! それはウソでしょッ!? したでしょ、キスくらいっ!」
この期に及んで伊吹はウソをついてきた。
前にあたしが徹平にキスされそうになったとき、伊吹は、
「いーじゃん、たかがキスくらい。減るもんじゃなし」
とあたしをバカにしたことがある。
そんな伊吹がキス未経験とか、絶対信じられないっ!!
あたしがそう言ったら、
「たかがキスってのは今でも思ってるよ。けど、コトミとはしてない」
と伊吹は首を振った。
「……じゃ、ほかの誰か」
「してない」
「なんでっ? なんでしなかったの?」
「なんでって……してって言われなかったから?」
伊吹はそう言ってちょっと首をかしげた。
なにそれ……
「……じゃあ、してって言われたら…してたってこと?」
「してたんじゃん?」
伊吹はいとも簡単に肯く。
なにそれ……意味分かんない……
あたしの顔を見て伊吹が首の後ろをさする。
「だってホントに、たかがキス、だろ。あんなのただ唇と唇くっつけるだけじゃん。よっぽど嫌いなヤツじゃなけりゃ、誰とだって出来るよ」
「じゃあ、好きな相手とは?」
「それはそれでしたいね」
「でも、好きじゃない人とも出来るんだよね?」
「うん」
と伊吹は肯く。
「信じられない……」
「お前がそう思うのは勝手だよ。お前はそういうの大事にすればいいって、前にも言ったろ」
伊吹はそう言うと、制服の上着を脱いで再びベッドに寝転がった。「浴衣とかねーのかな。制服がシワんなる」
なんとなく、伊吹は恋愛に対して淡白なほうかな…とは思っていたけど、まさかそんなふうに考えてたなんて……
そんな考えでよく、モテモテの伊吹が今まで誰からもキスされずにすんでたよね……
「…………」
……でも、それなら。
好きじゃない相手ともキスできるっていうんなら……
「……じゃあ、あたしが言ったら?」
「は?」
伊吹は寝転がったまま目を開け、あたしを見上げた。
「あたしが今、キスしてって言ったら……伊吹、してくれるの?」
ドキドキしながらそう聞いた。
伊吹はあたしを見たまま目を見開いた。あたしも黙って伊吹を見つめた。
そのまましばらく2人で見つめ合った。
……先に目をそらしたのは伊吹だった。
「……しない」
「なんでっ?」
あたしはベッドの上を、伊吹のすぐそばまで這っていった。「伊吹にとってはたかがキスなんでしょっ!? 言われたら誰とでもするんでしょっ!? じゃあしてよっ!!」
あたしがすぐそばまで行くと、逆に伊吹は反対側を向いて、
「お前は本気すぎて怖い。だからしない」
と笑った。
な、なによっ、それっ!!
「なんでよっ! してよっ!!」
「だから、ヤダって」
と伊吹はくすくす笑っている。
なんだか無性に恥ずかしくなって……同時に腹が立ってきた。
「させなさいよっ!」
「うわっ」
反対側を向いていた伊吹の肩をつかんで、無理やりこっちを向かせた。そのまま両肩を押さえつけて、上から見下ろす。
「……させて」
「……普通、逆だよな。なんで男のオレが押し倒されてんの?」
「いーでしょ! するよっ!?」
「ヤダっつーの!」
あたしが顔を近づけようとしても、伊吹はあたしの顎を押し返してくる。
「なんでジャマすんのよっ!」
「するよっ! つか、襲うなっつったよな!?」
大きなベッドの上で取っ組み合いになった。
「なに意識してんのっ!? さっきまでおまえ相手に、って言ってたくせに!」
「意識じゃねぇ! 警戒してんだよっ!」
しばらくそうして取っ組み合ったあと、
「……分かった。もう面倒くせーから、したきゃしろよ」
と息を弾ませながら伊吹がベッドの上に仰向けになった。
「え……いいのっ!?」
「ああ」
と伊吹は目を閉じる。「さっさと済ませろ」
や……やった―――!!
ちょっと微妙な展開になっちゃったけど、好きな人とファーストキスだ!!
「じゃ、じゃあ…… するね」
「おう」
伊吹の顔の横に両手をつく。安いスプリングがギ…と音を立てた。
どうしよう…… すっごい緊張するっ!!
ドキドキしながらそっと伊吹の顔に自分の顔を近づけた。
絶対あたしより長いまつ毛。
通った鼻筋。
そばかすひとつない綺麗な肌。
そして、形のいい唇……
本当にいいのっ!? しちゃうよっ!?
「……いただきます」
「どうぞ」
と言いながらプッと伊吹が笑う。
笑った顔のまま、目を閉じて待っている伊吹……
―――……やっぱり、ダメだ。
「……やっぱ、いい」
スプリングを揺らして、あたしは伊吹から離れた。
「?」
伊吹が目を開ける。「どうした?」
あたしは伊吹の横に体育座りをして膝を抱えた。
「……ファーストキスは本気で好きな人としなくちゃ、イミないもん」
「……」
伊吹も起き上がってくる。「お前、オレのこと好きなんじゃなかったっけ」
「好きだよっ!」
間髪入れずに言い返す。「そーじゃなくて……伊吹も、ってこと」
伊吹が目で問い返してくる。
「伊吹も初めてなんでしょ? だったら好きな人としなくちゃ……ダメだよ」
本当は伊吹とキスしたい。
すごくしたい!
でも、やっぱり伊吹にも、伊吹が本当に好きになった人としてもらいたい。
伊吹は、たかが、って思ってるかもしれないけど、本当に好きな人とすることになったら、絶対そうじゃなくなるよ。
きっとドキドキして、泣きたくなるほど嬉しいはずだよ。
その相手があたしじゃないってのが、すごく残念だけど……
……って、待って?
そしたらあたし、一生キス出来ないってこと?
伊吹のこと好きでいる限り……?
そんなのやだ―――っ!!
……やっぱりお願いしちゃう? キスさせてくださいって……
でももう、
『伊吹も本当に好きになった人としなくちゃダメだよ』
なんてカッコつけちゃったし、今さら、
『やっぱり、させて』
なんて言えないよ―――ッ!
そ、それに、かなり可能性は低いけど、これから伊吹があたしのことを好きになるってこともあるかもしれないし……
そのときに思いっきりキスさせてもらえばいいよねっ! うん!!
……って、それまでに伊吹がほかの誰かとキスしちゃったらどうしよう!?
たかがキス、好きじゃない相手とも出来る……なんて考えの伊吹が、この先どこの馬の骨とも分からない女子と、それこそノリだけでキスしちゃったとしたら……
それもやだ―――っ!!
「あのさ、ファーストキスは本当に好きな人としなさいよねっ!?」
「…………」
慌てて伊吹に念を押したんだけど、伊吹からの返事はなかった。
振り返ってみると、伊吹はいつの間にか再び横になっていた。
「……え?」
まさか、と思いながらそっと伊吹の顔を覗き込んでみると……伊吹は規則正しい寝息を立てていた。
……ってなんで寝ちゃってるのっ!?
あたしがこんなに思い悩んでるっていうのに、自分だけ―――!!
軽く腹を立てながら、伊吹に布団をかけてやる。布団の上からちょっと強めに背中を叩いてやっても、
「……ん」
と伊吹は微かに眉を寄せただけだった。
でも……伊吹が先に寝てくれてよかったかもしれない。
まだ、伊吹とキスできたかもしれないってことに未練はあるし、うっかりしたら、
「やっぱり……させて?」
なんてこと言っちゃってたかもしれないから。
さすがのあたしも、眠っている人間の唇を奪うほど非道じゃない。
伊吹はこっちに背中を向けて眠っている。あたしもそのとなりに背中合わせで布団にもぐった。
背中に伊吹の体温を感じる。
……どうしよう。
ドキドキして眠れないっ!!
もうちょっと離れた方がいいかな……と思って少し端の方に寄っても、隙間ができて寒いのか、すぐに伊吹がくっついてくる。
やだもうっ!
嬉しすぎるけど、チョー困る―――っ!!
すやすやと眠る伊吹のとなりで、あたしはいつまでも寝付けなかった。
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