真昼の月
  #5  衝動


翌日の放課後。 昨日詩織と長坂が話していた階段に長坂を呼び出した。
「なんか用?」
長坂は、疲れたような、ちょっと投げやりな感じにそう言って俺を見た。

中絶同意書の一件は、1日経って もっと噂になるかと思ったら、学校側はおろか生徒の間でもそれほどの騒ぎにはならなかった。
それは長坂のおかげだった。
「他のクラスにも言って回ったってよ。会長」
タクヤが感心したように溜息を漏らす。
朝のSHRが始まる前。まだ教室内がざわついているところに長坂がやってきた。
「良く聞いて欲しい」
いつも笑顔の長坂が、そのかけらも見せずに話し始めたことと、昨日の中絶同意書と詩織の一件もあって、教室内は一瞬で静まり返った。
「昨日このクラス内であったことだけど・・・ あれは、完全に彼女の勘違いだ」
「え・・・」
再び教室内が軽くざわつく。
「・・・や、でも本人が言ってたんですけど・・・?」
誰か・・・馬鹿がそう言ったら、長坂は軽くそいつを睨みつけたあと、
「だから、勘違いだって言ってるだろ? それに・・・」
と教室内を見回した。「・・仮にそれが本当だとしても・・・ 勝手な憶測で彼女を傷つけるヤツは、このオレが許さない」
長坂の言葉に、また教室内がシンとなった。
「・・・これが自分の彼女だったら・・・自分だったらと考えてみて欲しい。 事情を知らない奴らに噂されて嬉しいか? それが事実無根なことならなおさらだ。 ・・・そう考えたら、これが簡単に口にしていいことかどうか、君たちは良く分かるよな?」
全員が黙って俯いた。
長坂の真摯な態度に、全員がちゃんと話を受け止めたのが手に取るように分かった。

・・・・・本当に長坂は出来た男だ。
相当なショックを自分も受けているだろうに、それを後回しにして、あっと言う間に生徒の口にフタをしてしまった。

―――完敗だ。

どう足掻いても、この男には勝てない。

ゲームの駒を動かすように、人の気持ちを動かせると思っていた。
詩織の気持ちを動かして、最後に酷い目に遭わせてやろうと思っていた。
俺の計画に間違いはなかった。 それで5年分の恨みを晴らすつもりだった。
ただ・・・・・・ 自分の気持ちの変化まで、想定してなかっただけで・・・
墜としてやるつもりが、墜とされるなんて・・・・・ 思いも寄らなかった・・・
それでも、他人だったらまだ良かった。
ゲームのつもりで始めた恋愛でも、いつだって修正できる。
―――本気になれる。

なのに俺には・・・・・ それが許されない。

だから俺は、修正のきかない想いが暴走しないように、自分で枷をはめる事にした。
「いや、あの・・・・ あれ、誤解だから」
詩織が長坂と復活すれば。
俺がどう足掻いても敵わない長坂と復活すれば・・・
・・・そうすれば、諦められる。
「誤解?」
長坂が眉間にしわを寄せる。
「や、だから・・・ あの、中絶同意書のこと・・・ あれ・・・ あの人のじゃなくて、俺のだから」
「・・・・・は?」
さらに眉間のしわを深くする長坂に、美和の名前を出さずに状況を説明した。
「・・・・・マジで?」
黙って肯く。
長坂の表情から、やっぱり詩織が何も言い訳らしいことをしていなかったのだと分かった。
これで長坂も安心するだろうし・・・・・ 2人の仲も復活するに違いない。
俺が諦めにも似た気持ちで小さく溜息をついたら、
「そっか・・・・・」
と長坂はどうでもいい事のように呟いただけだった。
・・・・・なんでもっと喜ばねーんだよ?
「や・・・ あの、だから、アレのせいで2人が揉めるのは俺も気になるし、ヤだし・・・」
長坂の態度に不安になり、俺が言い訳がましいことを口にしたら、長坂は、
「もう分かったから、気にしなくていいよ。 つか、キミこそ大丈夫なわけ?」
と逆に俺のことを心配してきた。
まだ美和に同意書は渡していない。 それどころか、堕ろすのかどうかすらも返事をしていない。
でも、長坂に話すことでもないから、テキトーに肯いておいた。
「キミモテそうだもんな。 ま、今さら言ってもアレだけど、ちゃんと避妊だけはしろよな」
と長坂はちょっとだけ笑顔になった。 そして溜息。
長坂の反応がイマイチ鈍いのが気になったけど、誤解は解けたみたいだし、さっさと教室に戻ろうとしたら、
「なんか・・・ ダメかも。 オレたち」
と長坂が呟いた。
「え・・・?」
「詩織ちゃん・・・お姉さんは、あんまりオレのこと好きじゃないみたいだ」
思わず長坂を振り返る。
「付き合ってって言ったら肯いてくれたけど、多分オレの押しが強かったせいだと思うんだよね」
「そんなこと・・・」
ないだろう。 これだけ完璧な男から告白されて、迷う女なんているはずがない。
「これはオレの勘だけど・・・ 多分、お姉さん・・・ 他に好きな人がいんじゃないかな?」
「え・・・」
「転校してくる前の学校とかに・・・」
そう言われて、前に詩織が、
「付き合ってた彼はいたけど、別れちゃったの」
と話していた事を思い出した。
詳しく聞こうとしたら、大人の事情、とかなんとか誤魔化されたけど・・・
まさか、そいつのことが・・・・・
不意に心臓が早鐘を打ち始める。
まさか詩織に、他に好きな男がいるなんて考えもしなかった。
この長坂でも太刀打ち出来ないほどの男が・・・・・?
「弟くん、なんか聞いてない? お姉さんから」
「や・・・ 家であんまあの人と話さないから・・・」
急に意外なことを知らされたせいで、顔が引きつりそうだった。
俺の顔を覗き込んでくる長坂の視線から逃れるように、顔をそらした。
・・・でも、まだ俺の顔を見ているのが気配で分かる。
・・・・・なんだよ?
「・・・面白いね?」
「は?」
訳の分からない長坂のセリフに思わず振り返った。 長坂は、やっぱり俺の顔を覗き込みながら、
「詩織ちゃんがキミの事を、弟、弟って連呼するのに対して、キミは詩織ちゃんの事を、あの人って呼んでる」
「え・・・」
「駅前のカラオケボックスで会ったときは、詩織って呼び捨てにしてた」
「・・・カラオケ?」
・・・あの、
「腹が痛い」
と言って詩織を連れ出した・・・・・ あのときか?
俺、そんとき呼び捨てにしてたのか・・・? 詩織のこと・・・・・
全然覚えていない。
「姉さんって呼んだのは、昨日。オレたちがここで話してたところへキミが割り込んできたときだけだ。 それも、迷った末にって感じだった」
とそつのない笑顔を俺に向ける。
こいつ・・・・・ッ!
「それが・・・ 何か・・・?」
・・・落ち着け。 こいつのペースに巻き込まれるな!
「別に? なんも?」
長坂はちょっと身体を伸ばすようにして、やっと俺の顔を覗き込むのをやめた。
「姉弟って言っても義理なんだし。 ホントはイトコなんだろ?」
・・・・こいつの言うとおりだったら、どんなにありがたいか・・・・
「だからキミが彼女のことをどう思おうと構わないけど。 オレが興味あるのは彼女の気持ちだけだから」
そう言って長坂は教室に戻って行った。

―――オレが興味あるのは彼女の気持ちだけ・・・

誰の目も憚らず、そう言える長坂が羨ましかった。
「〜〜〜クソッ!」
やり場のない思いをぶつけるように、踊り場の壁を殴った。
長坂は、詩織には他に好きな相手がいるんじゃないかと言っていた。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
・・・・・でも、それに何の問題がある?
詩織に好きな相手がいるとか、いないとか・・・ 俺はそれ以前の問題だ。
たとえ長坂が詩織にフラれたとしても、それでも俺は長坂が羨ましかった。

―――死ぬほど、羨ましかった・・・


「ただいま・・・」
玄関のドアを開けたら、出汁の効いた匂いが漂ってきた。
いつもだったら、
「お帰り〜」
と声が返ってくるのに、今日はそれがない。
そのままキッチンに向かう。
詩織はなにやら鍋をかき混ぜている。 その頭上で回る換気扇の音のせいで、詩織は全然俺に気が付いていない。
栗色の髪をひとつに束ねて。 制服の上にエプロンをつけて。
熊のミトンでフタをつかみ、真剣な顔で鍋の中を覗き込んでいる。

―――他に、好きな人がいるみたいだ

―――キミの事、弟、弟って連呼してる

今日、長坂と話したことが脳裏に蘇る。
と同時に、胸が苦しくなってきた。
「きゃあっ!」
ミトンを外してガスの火を調節したあと、何気なくこっちを振り返った詩織が飛び上がった。
「・・・・・・ただいま」
「んも〜〜〜! ビックリしたぁ! ちゃんと声かけてよ!!」
「かけたよ」
そう言いながら俺もキッチンに入った。「いい匂いだね」
「ん。今日はね、お魚と筑前煮だよ」
何事もなかったような、いつもの光景。
詩織は昨日の中絶同意書を見たあと、一度も俺にそれを問いただしたりしてこなかった。
ありがたい反面、あのとき庇ってはくれたけど、それほど俺に興味ないのかと軽く落ち込んだり・・・・・・
「・・・さっき、長坂さんに会ってきたよ」
「え・・・?」
「誤解されたままなのはイヤでしょ? ちゃんと説明してきたから。アレは俺のだって」
詩織は俺の顔を黙って見つめていた。
「だから、もう大丈夫だよ」
「・・・・・大丈夫って、なにが?」
そう言って、視線をそらす詩織。
「や・・・ なにがって・・・ だから、長坂さんと・・・・・」
「・・・・・そんなこと、ハルくんに頼んでない」
なぜだか、詩織はちょっと怒っているようだった。
まるで、俺が余計なことをしたとでも言うように・・・・・
え? だって、好きで長坂と付き合ってんだろ? その長坂に誤解されたままなのはイヤだろ?
・・・・・それとも、やっぱり長坂が言うように・・・
「長坂さんが・・・ あんたには別に好きな男がいるんだろうって・・・そう言ってた」
詩織は否定も肯定もしないで、足元に視線を落としていた。
「だから、自分に本気じゃないんだろうって」
俯いているせいで詩織の表情が分からない。
「・・・・・どうなの?」
詩織は俯いたまま、
「・・・そんなこと、ハルくんに関係ないでしょ」
「や・・・ そーだけど・・・」
「前にハルくんだってあたしにそう言った。 ・・・それとも、長坂くんから頼まれたの?聞いて来てくれって・・・」
「・・・・・ちがう」
長坂に頼まれたんじゃない。 そんなんじゃない。
詩織が言うとおり、俺には全く関係ないことなのに・・・・・
いや、係ることすらいけないことなのに・・・・・
ただ知りたい・・・・・ 詩織のことが知りたいだけだ。
そのまましばらく2人で黙り込んでいた。
伏せた詩織のまつ毛が、頬に影を落とす。
何も言えずに、身動きすら出来ずに、ただ黙ってそれを見ていた。
エアコンがついているのに、汗が胸を伝っていった。
やけに喉が渇いて唾を飲み込もうとしたけど、ちょっとした音まで響きそうで我慢する。
・・・・・息苦しいほどの沈黙。
耳が、痛い。
その沈黙を詩織が破った。
「―――あたしっ」
と詩織が顔を上げると同時に、火にかけていた鍋が音を立てて吹き零れた。
「あっ!」
弾かれたように、詩織が鍋に手を伸ばす。
「馬鹿ッ! やめ・・・ッ!」
「ッ!!」
慌てて止めようとしたけど、遅かった。
詩織は慌てて鍋のフタを取り、その蒸気がまともに右手にかかってしまった。
カラカラという音を立てて、鍋のフタが転がる。
眉を寄せて傍に置いてあった布巾を手にする詩織。
「馬鹿ッ! こすんなッ!!」
慌てて詩織の右手を掴み上げて、そのまま流しに引っ張った。 勢い良く水道を流す。
「・・・・・痛い?」
「分かんない・・・ ヒリヒリは、する・・・・・」
流している間に、段々詩織の右手首が赤くなってきた。
掴んでいる俺の指がかなり余る、細い詩織の手首・・・
「・・・痕、残ったら困るな。 女なのに」
「大丈夫だよ、これくらい。 オロナインでも塗っとく」
「効くの? あれ」
「分かんないけど・・・ 気休めにはなるよ?」
「なんだそれ」
詩織らしいのん気な答えに、おかしくなる。 少しだけ2人で笑った。
「・・・・・もう、大丈夫じゃないかな」
「あぁ・・・」
レバーを持ち上げ水を止める。
でも、まだ俺は詩織の腕を掴んだままだった。

・・・・・放せない。 放したく、ない。

「・・・ハルくん?」
詩織が俺を見上げる。
微かに揺れる黒目がちな瞳が、俺の瞳の奥を探るように見つめ返してきた。
その瞳に吸い込まれそうになる・・・・・
「・・・・・好きだ」
気が付いたら、そんなことを言っていた。
「え・・・」
「あんたが好きだ」
そう言って、掴んでいた腕を引き寄せた。
他に好きな男がいても。
俺の母親を苦しめていたとしても。
・・・・・血が繋がった実の姉弟でも・・・
―――それでも、気持ちを抑えることができなかった。
「でも、ハルくんは・・・・・ ンッ!」
そのまま詩織に口付けた。
「好きだ・・・ あんたが・・・ あんただけが、好きなんだ・・・」
そう言って、何度も詩織の唇を食んだ。
美和のことも、実の姉弟だってことも忘れて何度も口付けた。
「待っ・・・! ・・・んッ! ん・・・」
はじめは俺の胸を押し返すように抵抗していた詩織の腕から力が抜けた。そしてそのまま、俺の制服のシャツを握り締める。
意識まで一緒に掴み取られたようで、途端に鼓動が早くなる。
何度も口付けたあと、押し返すようにしてちょっとだけ唇を離した。
見下ろした詩織の瞳が潤んでいる。
「・・・あたし・・・・・ あたし、どうすればいいのか・・・ 分からない・・・」
潤んだ瞳が微かに揺れる。
・・・詩織が迷っているのが手に取るように分かった。
拒否しているんじゃなく、迷っているのが・・・・・・
たまらなくなって詩織の腰を強く抱き寄せた。
「・・・したいようにすればいい」
そう言って再び口付けた。
詩織が戸惑いながら、俺の背中に腕を回す。
泣きそうになりながら、夢中で詩織に口付けた。
階段を上がって自分の部屋に行く余裕なんかなかった。
縺れ合うように抱き合ったままリビングのソファまで移動した。その間、何度も唇を追いかけながら。
そのまま崩れるように2人でソファに倒れこんだ。
詩織の顔の横に両手をついて、詩織を見下ろした。
「・・・・・好きだ」
「ハル、くん・・・・・」
制服の上にしていたエプロンを外し、首筋に唇を這わせた。
「ッ!!」
詩織の身体が震える。 でも、構わずシャツのボタンを外した。
今動きを止めたら、俺まで震え出しそうだった。
震えて・・・ 怖くて・・・ その先に進めない気がした。
女を前にして、こんな気持ちになったのは初めてだ。
急いで、でもそっと、着ているものを全部脱がせた。
日に焼けていない、真っ白な詩織の身体。
それを目の前にしただけで、目眩を起こしそうだった。
詩織は恥ずかしそうに、胸の前で腕を交差させている。
「・・・・・やだ?」
かすれる声でそう聞いた。
詩織は俺を見上げ、微かに首を振ったあと・・・・・ 潤んだその瞳をゆっくりと閉じた。
―――嬉しくて、泣いてしまいそうだ。
その震えるまつ毛に唇を落とした。

唇を食んで、食まれて。

全身を舐めて、舐められて。

耳元で囁いて、囁かれて。

・・・熱に浮かされたように、夢中で抱き合った・・・


―――――とうとう俺たちは、禁忌を犯してしまった。



どうして俺たちは姉弟なんだろう・・・

どうして・・・ 血が繋がっているんだろう・・・・・・


神に背いた俺の願いなんか、絶対聞いてもらえないって分かってる。
絶対に叶わないことだって分かってる。

でも・・・

もしもまだ、ひとつだけ願い事を叶えてもらえるなら・・・
俺は、なんだってする。

これから先のどんな幸せもなくなったっていい。

だから・・・・・

だから、神様。


―――どうか、俺と詩織を他人にしてくれないか・・・・・・

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