Secret Love affair  #4 電車内


「ん・・・ はぁ・・・ ね、ねぇ・・・?」
衛生士が僕の頬を両手で包みこんできた。
振り解きたいのを我慢して、
「・・・何?」
「あっ、あんっ ・・・キス、したい・・・」
「・・・やだ」
「なんで? ・・・んっ」
「なんでも・・・」
腰の動きはそのままに、衛生士を見下ろす。「・・・そんなことどうでもいいから。 さっさとイッてよ」
膝を高く持ち上げ、より深く繋がる体勢にしてやる。
「あぁんっ! ちょっ・・・ だ、ダメっ! そんなふうにしたら・・・ あっ、ああっん・・・ すぐイッっちゃ・・・ あっ!」
「・・・だから、早くイキなって」
「やぁんっ! は、隼人も一緒が・・・いい・・・ あ、はぁっ!」
そんなの待ってたら、ずっとイケないよ?
・・・って言うか、そんなの絶対無理だ。
―――僕が 本当に欲情するのは、彼女だけなんだから・・・
「やっ! 気持ちいっ あぁん! も、もうダメ―――・・・」
夜の診療所に衛生士の嬌声と僕たちの肌がぶつかり合う音が響いていた・・・


「あら? 隼人くん。 どうしたの?」
9時を過ぎた診療所には、衛生士の女性が1人残っていただけだった。
「・・・父は?」
「院長なら、さっき来た材料屋さんと飲みに出かけたわよ」
「え・・・ そう」
僕が予備校から帰るとすぐに歯科医をやっている父親から電話がかかってきた。
「すぐにレセプト用紙を持ってきてくれ」
レセプト用紙というのは、健康保険分の診療報酬を貰うための請求用紙だ。
そのレセプト用紙がいつもは診療所に届くはずなのに、何か手違いがあり今回は自宅の方に届いてしまったらしい。
提出日は明日だから今日中に打ち出し作業をしなくてはならないようだった。
「・・・もしかして、レセ用紙持ってきてくれたの?」
衛生士が、僕が手にしていた紙袋を指差した。
「うん」
・・・・・この衛生士は僕が中学の頃からウチで働いている。
父しか残っていないだろうと思って、僕は何も考えずにレセ用紙を届けに来てしまった。
―――まさか、この人が残っているなんて思わなかった・・・
よく確認しなかった自分の迂闊さに、心の中で舌打ちする。
僕がスタッフルームのテーブルの上にレセ用紙を置いてさっさと帰ろうとしたら、
「待って。 せっかくだからお茶していかない? 患者さんからいただいたお菓子があるの」
とその衛生士が声をかけてきた。
「いや、もう遅いし・・・ 帰ります」
「あたしもお茶しようと思ってたところだし・・・ 一緒に。 ね?」
と衛生士がカップを用意し始める。
「・・・いや、ホントに帰るから」
それでも僕が断ろうとしたら、
「・・・本当はレセ出し手伝って欲しいの・・・ 院長、急に飲みに行っちゃうし・・・ プリントがずれても、あたしプリンターの調整の仕方とか?分からないし・・・」
歯科のレセプト用紙は項目が細かく分かれていて、ちょっと印刷がズレただけでも打ち直さなくてはならないことがある。
・・・仕方がないから肯いた。
「・・・最近、全然診療所来なくなったよね? 隼人くん」
「・・・そうですか?」
プリンターから吐き出される用紙を眺める。
「・・・・・もしかして、避けられてるのかな〜、とか」
衛生士が僕の横に立つ。「・・・彼女でも出来たの?」
「・・・そんなの、いないよ」
「だったらいいけど」
静かな診療所に、レーザープリンターの音だけが響いていた。
「・・・なんか、大丈夫そうだし・・・ 僕そろそろ帰ります」
「えっ!? あと30分もかからないで打ち出し終わるし・・・待ってて? 一緒に帰ろ」
と言いながら、衛生士は僕の腕に自分のそれを絡ませてきた。 僕はそれを解きながら、
「・・・そういうことなら・・・ ホントに帰る」
「・・・やっぱり彼女出来たんでしょ?」
「だから・・・ いないって・・・」
「じゃ・・・ 久しぶりに、しない?」
「―――・・・」
・・・僕は中学の終わり頃、この衛生士とちょっとだけ関係を持っていたことがあり・・・ 僕の初めての相手だった。
ちょうどそういうことに興味を持ち始めた頃だったし、衛生士の方から誘ってきたから、なんの躊躇いもなく関係してしまった。
でも、高校に入り彼女のことを好きになったから、この衛生士との関係はすぐに終わりにした。
・・・・・・つもりだった。
僕の方は終わりにしたつもりだったのに、衛生士の方はそうじゃなかったみたいだ。
この衛生士はスタイルも良く、顔もそこそこだったから、今まで男の方から別れを切り出されたことがなかったようだ。
それを初めて男から・・・ しかも、年下の高校生から関係を切られたことで、どこかムキになっているところがあったみたいだ。
初めのうちは適当に断っていたんだけど、そのうち断るのも面倒になり、僕は診療所に近づかなくなった。
・・・だから、この衛生士と会うのは本当に久しぶりだった。
「・・・・・やめとく」
衛生士の方を見ないでそう答えた。
「・・・生意気ね。 誰にオトコにしてもらったと思ってるの?」
「・・・別に、頼んでない」
そのまま帰ろうとした僕に、衛生士が声をかけてきた。
「隼人くん、確か・・・ 一度も歯の治療したことなかったわよね?」
「・・・・・・何?」
僕が振り返ったら、衛生士はレーザープリンターから吐き出されるレセプトを眺めながら、
「なのに、どうして毎月隼人くんのレセが出てるのかしらね〜?」
と意味ありげに僕を見つめる。「今月なんか親知らず抜いてるし。 しかも埋伏」
黙って衛生士を見つめる。
確かに僕は、今まで一度も歯の治療をしたことがない。 やはり親が歯科医のせいで小さい頃からブラッシングに関してはうるさく言われていたからだ。
「・・・何が言いたいワケ?」
「別に?」
そう言いながら衛生士が僕に歩み寄ってきた。 再び腕を組んでくる。
「隼人くんて、親孝行しそうだな〜って」
「・・・・・・父が不正請求してるって言いたいの?」
衛生士はちょっと笑いながら、
「・・・これがバレたら、お父さん 保険医剥奪されちゃうね?」
僕は黙って顔をそらした。
確かに父は不正請求をしているようだった。 その事には僕も薄々感付いていた。
―――・・・でも、そんなの父だけに限った事じゃない。
保険点数は大して上がらないのに、技工物の値段はどんどん上がる。
患者の絶対数は変わらないのに歯科医院は増えるから、来患数は減ってしまう。
その患者には必要な処置なのに、保険外だと言うと露骨にイヤな顔をされ、挙句の果てには勝手に転院してしまう・・・
―――こんな状況で真面目に保険のルールに従って診療なんかしていたら、殆どの歯科医院なんて潰れてしまう。
多かれ少なかれみんなやっている不正請求だけど、父は、身内のカルテだから・・・と大胆にも 僕の親知らずを勝手に抜いたことにしてしまったようだ。
不正請求がバレたら、保険医療機関の指定が取り消され、保険医の登録も5年間は取り消されてしまう。
こんな時代に保険医を取り消されたら、あっという間に患者なんか来なくなる。
「お父さん頑張っちゃったのかなぁ? 隼人くんだって歯科大受験するんでしょ? 美雪ちゃんだってあと4年残ってるし・・・ お金かかるもんね」
美雪というのは、僕の2コ上の姉だ。 父が出た歯科大に通っている。
受験の前は、
「歯医者なんか絶対やらないから!」
と豪語していたくせに、テレビに出ている女性外科医に感化され、
「医者も悪くないかも。 女医ってだけでモテそうだし、ウチを継げば就職活動とか?メンドーなこともないし」
とチャラチャラと遊び半分で大学に通っている。
・・・僕は特別に歯科医になりたいわけじゃなかった。
ただなんとなく小さい頃から漠然と、父がやっている仕事だからいずれ僕もやるんだろう・・・という感覚でしかなかった。
だから、仮に父が保険医を剥奪されて、資金的な面で僕が歯科大に進むのは困難だとなっても、それはそれで構わなかった。
遊び半分で大学に通っている姉の事なんか知ったことじゃない。
更に言うなら、世間体や見栄ばかり気にする母親のこともどうでもいい。
僕がここで衛生士の誘いを断ったって、僕が困ることなんてひとつもない。
―――でも・・・
仕事に疲れた父の顔が頭をかすめた。
歯科医師会の付き合いや面倒な派閥争いに疲れている父の顔が、母や姉の理不尽な不平不満に 爆発する事もなく黙って新聞に目を落としている父の顔が頭をかすめた。
子供の僕の目から見ても、要領の悪い父。
その父が不正請求までして守りたかったもの・・・・・
「多分、院長がここまで大胆なことやってるって知ってるのは、あたしくらい・・・」
「・・・脱いで」
僕は着ていたピーコートを脱いだ。
「え?」
「セックスしたいんでしょ? 脱いで」
衛生士の方を見ず、事務的に自分のシャツのボタンを外す。
「あん♪」
衛生士はちょっと笑って、「隼人が脱がせて?」
と僕の首に腕を絡ませ、唇を近づけてきた。 僕は顔を背けながら、
「過程なんかどうでもいい。 さっさと始めようよ」
「もう〜っ! せっかちなんだからっ」
衛生士は、自分で白衣のボタンを外しながら、「クールなフリしてても、隼人もやっぱり男子高校生なのね」
・・・吐き気がした。
当然だけど、僕はこの衛生士にこれっぽっちの愛情の欠片も持っていない。 衛生士の方だって同じだ。 僕に対して愛情なんか感じていない。
感じていたら、あんな半ば脅すようなやり方で誘ってくるとは思えない。
僕の方から切られたことでプライドが傷つけられたことと、性的欲求を満たすためだけの相手として誘った・・・ いや、強要してきただけだ。
こんな状況で勃つのか疑わしかったのに、衛生士がズボン越しに僕の下半身に触れたら、それは間もなく硬直し始めた。
「ふふ。 元気ね?」
自分の下半身にまで腹が立った。
―――・・・なんでこんなのに・・・ 勃つんだ・・・
と同時に彼女の顔が脳裏によぎる。 それを振り払うように、慌てて衛生士をソファに押し倒した。
「あん♪」
すぐにストッキングとショーツを脱がせる。 指先に唾液をつけて、それを下肢の付け根に這わせた。
「ちょっ・・・ イキナリすぎないっ?」
こんなこと、さっさと終わりにしたい。
急いでベルトを外し、ちょっとだけ下着をずらした。
衛生士が僕の下半身を見つめて、
「なんか・・・ 3年の間に成長してる?」
「・・・・・余計なこと言わなくていいよ」
「だって、中学の頃と全然違う・・・・・  あっ!? ・・・ん!」
衛生士の膝を持ち上げ、下の口を塞いだ。
「んっ! やっ あぁん! やっぱり全然違っ・・・ はあぁんっ あぁ!」
僕は衛生士を見下ろしたまま、機械的に腰を振り続けた。
「あ・・・ ま、待って? そんなに、急にしたら・・・ あんっ 壊れちゃ・・・ あっ」
・・・壊れてしまえばいい。
色情に呆けたこの衛生士も。
自分の事しか考えていない母親や姉も。
目的を見失ったことにも気付いていない、自己犠牲的な父も。
そして―――・・・ この僕も。

「隼人・・・ イカなかったね?」
黙って服を直している僕の背中に、衛生士が抱きついてきた。「久しぶりで緊張しちゃった?」
「・・・別に」
・・・あなたじゃイケなかっただけだよ。
「また会える?」
「・・・さぁ?」
「会えるでしょ? ・・・だって・・・ ねぇ?」
と言いながら衛生士が僕に唇を寄せてきた。「隼人の親知らずの行方・・・ あたし知ってるもの」
無言で衛生士の唇を押し戻す。 衛生士はちょっとムッとした顔をして、
「・・・ねぇ? なんなのさっきから。 なんでキスしないわけ?」
僕は情事の最中ですら、衛生士の唇を避けていた。
こんなに心も身体も汚れてしまっている僕なのに、なぜかキスだけは彼女としか出来なかった。
・・・いや、したくなかった。
「・・・・・メガネが当たるし・・・」
―――彼女に会いたい。
「なにそれ? そんなの外せばいいじゃない」
―――会って彼女を抱きしめたい。
そして、彼女の柔らかい唇にキスしたい・・・
「・・・隼人?」
「・・・え?」
振り向いた直後、僕の唇に何かが押し付けられた。
・・・それが衛生士の唇だと気付くのに数秒かかった。
反射的に衛生士を突き飛ばす。
「きゃぁっ!」
衛生士がよろけてテーブルに手をついた。「な、何するのよっ!?」
・・・何するの、だって?
それはこっちのセリフだ! いきなり・・・・・
―――・・・ ッ!?
胃がねじれるような恐ろしい感覚の後、急にそれは襲ってきた。
僕は慌てて診療所内の流しに駆け寄った。
―――・・・寸前で我慢することが出来た。 けれど、喉元まで上がってきた胃液で、喉が焼けるように熱い・・・
「隼人っ?」
僕が流しの縁に手を付いて浅い呼吸を繰り返していたら、衛生士が驚いて僕の背中に手をかけてきた。
「具合悪いの?」
心配してくる衛生士を振り切って、僕はピーコートをつかみ逃げるように診療所を飛び出した。
・・・何をやってるんだ、僕は・・・・・・
彼女のことが好きなのに・・・ 彼女のことしか愛せないはずなのに・・・
なのに、なんであんな女を抱いたんだ・・・
慌てて首を振った。
―――僕のせいじゃない・・・
あの衛生士が誘ってきたからだ。
父の不正請求のことをチラつかせて、僕を脅したから。
僕があそこで断って・・・・・・父が職を失ったらどうなる?
世間体を気にする、見栄っ張りな院長婦人に納まっている母親はどうなる?
父の稼いだ金で大学に遊びに行っている姉は?
生活費を流し込む事でかろうじて家族と繋がっているような父は・・・どうなる?
僕のせいじゃない・・・
僕は汚れてなんかいない・・・
あの衛生士のせいだ・・・
母親の、姉の・・・・・・ 父のせいだ・・・
呼吸が荒くなり、心臓が早鐘を打ち始める。
・・・何を言っている?
さっきは、母親も姉も父もどうなってもいいと思っていたくせに・・・ 自分が助けた気にでもなっているのか?
結局、あの衛生士を抱いたのは自分の意思じゃないのか?
実際あの衛生士相手に、僕の下半身は勃ったじゃないか・・・
身体と頭が別物になったみたいだ。 平衡感覚が失われたようにフラフラする・・・・・
と同時に、彼女のことが頭をよぎった。
・・・彼女は、今の僕と同じように苦しんでいるのか・・・?
彼女にとって、僕はあの衛生士と同じなのか・・・? そうなのか・・・?
・・・いや、違う!
あの衛生士との間に愛なんかないけど、僕は彼女のことを愛している。 狂おしいほど愛している。
―――・・・でも、彼女の方には・・・・・

色々な思いがカオスの渦となって僕を飲み込む。

―――・・・消えてしまいたい・・・


翌日。
なかなか寝付けなかったせいで朝が遅くなり、いつもより遅い電車に乗ったら偶然彼女と乗り合わせた。
彼女と僕は同じ沿線に住んでいて、以前は登校が一緒になることも多かった。
だけど、僕が彼女に気持ちをぶつけるようになってから、彼女は時間をずらすようになり滅多に会うことはなくなっていた。
久しぶりに電車内で僕に会った彼女は驚いた視線を向けた後、気まずそうに顔を伏せた。
僕自身も、昨日の衛生士との事がわだかまりとなっていて、いつものように彼女に近づくことが出来なかった。
けれど、どんどん乗り込んでくる乗客に押されて、結局は反対側のドアのところに立っている彼女のすぐ前まで移動してきてしまった。
「・・・おはよう」
「おはよ・・・」
そう言って彼女は俯いた。 俯いたまま身を固くしている彼女。
少しでも身体が離れるように身をすくめている。
地下鉄との連絡駅に到着すると、さらに人が乗り込んできた。
「・・・んっ」
僕の鎖骨の辺りが彼女の顔を圧迫する。
降ろしていた腕を上げ、ドアに・・・彼女の顔のすぐ横に手をつく。
「っ!? やっ・・・」
彼女が肩をすくめる。
僕はそのまま腕に力を入れて、彼女との間に少し隙間を作った。
キミの身体に触りたいけど・・・ 昨日の今日でキミに触れたら、キミまで穢してしまいそうで・・・
・・・・・って、もうとっくに穢してるのか。 僕は・・・
―――自虐的な笑いがこみ上げてくる。
彼女がちょっとだけ視線を上げて僕を見上げた。
「・・・・・ゴメンなさい・・・」
「・・・え?」
彼女の顔を見下ろす。「何?」
・・・? なんで彼女が謝るんだろう?
「なんでもない・・・・・・」
と再び彼女は顔を伏せて、呟くように、「・・・その・・・、ありがと・・・」
と今度はお礼を言った。
・・・やっと彼女の言いたいことが分かった。
でも、彼女の勘違いはもともと僕のせいだから、僕は黙って首を振った。
電車内は混んでいたけど、それだけじゃない息苦しさが僕たちの周りに立ち込める。
「・・・微積のテスト勉強・・・ してきた?」
息苦しさを、彼女の方から払ってくれた。
「え?」
再び彼女を見下ろす。
「今日、小テストだよ?」
「そーだっけ?」
「先週 自分で言ってたのに。 五十嵐くん」
「忘れてた・・・」
っていうか、昨日はそれどころじゃなかったから・・・ ―――また昨日のことを思い出し、憂鬱になる。
「でも、五十嵐くんは数学得意だから、勉強なんかしなくっても大丈夫か」
「過大評価しすぎ」
「あたし、微分はまだマシなんだけど、積分が苦手なんだ」
「あぁ・・・ でも、大体みんなそうじゃない?」
「そっかな・・・ だといいけど・・・」
彼女が心配するように軽く口を尖らせる。 かわいい唇が、塗られたグロスのせいで妖しく光る。
・・・胸の動悸が早くなってきた。
「でも、みんなケッコー勉強してないとか言って、してるんだよね・・・」
「・・・村上さんは?」
「・・・したけど、全然分かんなかった・・・」
彼女の答えに僕が軽く笑ったら、ますます彼女の唇が尖った。
さらに動悸が早くなり、抗い難い衝動が襲ってきた―――・・・
彼女を庇うためにドアに突っ張らせていた左手の肘を折る。
「えっ!?」
さっきまでは手の平をドアについていた状態だったのに、今度は肘で身体を支える格好になったせいで、一気に彼女との距離が縮まる。
「ゴメン・・・ ちょっと混み方が酷くなってきたから・・・」
「う、うん・・・」
可愛い唇が、今度は無理に笑顔を作ろうと両頬に引っ張られる。
その唇に、僕が引き寄せられる。
キミを穢してしまうかも・・・と見当違いな事を考えていたくせに、気が付いたら僕は彼女の頬に右手を添えていた。
途端に彼女が身を固くする。
そのまま親指で彼女の下唇をそっとなぞった。
「い、五十嵐くん・・・?」
彼女の耳元に口を寄せて、
「大丈夫・・・ ヘンなこと、しないから・・・」
「で、でも・・・」
彼女が僕の腕から逃げようと 僕の胸を手の平で強く押してきた。 けれど凄い混み方で敵わない。
「・・・キスするだけ」
と言いながら唇を彼女に近づける。
「えっ!? あのっ・・・」
「騒がないで・・・」
彼女の唇に人差し指を当てる。
偶然周りの乗客はみんな僕たちに背を向けていた。 1人だけこっちを向いていたけど、その乗客も目を閉じて耳にヘッドフォンをつけている。
彼女の顎に手をかけ 少し上に向かせて、そっと彼女の唇に口付けた。
「・・・ッ!!」
緊張に固まるキミの唇を、掬うように何度も啄ばむ。
ほんのりするバニラの香り。 ―――本当に食べてしまいたい・・・
しばらくそうした後、ほんの少しだけ唇を離す。
お互いの下唇が微かに触れ合ったまま目を開けた。
「・・・い、がらしくん・・・?」
そう呟く彼女の唇が僕の唇をくすぐる。
近すぎて全然焦点が合わない。 ・・・それでも彼女を見つめた。
愛しくて愛しくて・・・ そして切なくて―――・・・
この、甘い焦燥的な感覚をどうしたら彼女に伝えられるのか分からない。
僕は、まるで そうしたら彼女に気持ちが伝わるかのように、また強く彼女に口付けた。
わざと鼻を擦るようにしながら、何度も顔の向きを変える。
舌を差し入れようと彼女の唇を割ろうとしたところで、・・・思いとどまる。
「・・・ゴメン」
またちょっとだけ唇を離した。
彼女が軽く息を弾ませる。
・・・・・彼女には恋人がいる。 それは分かっている。
いつも、彼女を困らせてるって分かっていながら、・・・僕は彼女に触れていた。
この想いを止める術はどこにも、誰にもない・・・・・と自分に言い訳しながら嫌がる彼女の身体に触れていた。
・・・でも、どんな言い訳をしたって、僕のしていることは昨夜の衛生士と同じだ。
―――不意に喉の奥が痛くなってきた。
慌てて彼女の髪に顔を埋める。
「・・・五十嵐、くん?」
戸惑い、僕を見上げようとした彼女の頭をそのまま胸に抱え込み、下瞼から込み上げそうになるものを必死で抑える。
しばらく居心地悪そうにしていた彼女は、
「・・・・・なんか・・・ あったの?」
と僕の胸の中で呟いた。
「・・・・・何も?」
僕はさらに強く彼女を抱きしめて、「何もないけど、もうちょっと・・・ このままで・・・・・」
抵抗するかと思ったら、彼女はそのまま大人しく僕に抱かれていた。
車内が混んでいて、離れたくてもそう出来なかっただけかも知れないけど・・・
彼女を抱きしめたまま窓の外を眺めていたら、
「もう、志望校とか・・・ 決めた?」
と彼女が。
志望校・・・・・
「五十嵐くんちは歯医者さんだから、やっぱり歯科大行くんでしょ?」
「・・・・・さぁ・・・」
志望校・・・ 将来・・・
今のままいったら、多分僕は歯科大に行くんだろう。
・・・けれど、父のやっていることがどこまで続くのか・・・ いつ発覚するかも分からない今の状況では・・・・・
全てがどうなるのか、今の僕には全然先が見えない・・・・・
いや、見ないようにしているだけなのかも知れない。
目の前の彼女以外、全てのものが消えてしまったらどんなにラクだろう・・・・・
「それ・・・ 五十嵐くんの得意技だよね」
「・・・得意技?」
「さぁ?って。 なんか聞いたとき、そう言ってはぐらかすの」
「・・・そうかな?」
「そうだよ。 気づかなかった?」
全然気づかなかった。
って言うか・・・
彼女が、そういうところを見つけてくれていた事に・・・ 僕のことを見てくれていた事に感動・・・
―――また腕に力を込める。

このまま・・・ 時間が止まってしまえばいい。
彼女と・・・・・彼女を抱いているこの腕の温もりさえあれば、他には何も要らない。


車内アナウンスが、僕たちの降りる駅に近づいてきたことを知らせた。
黄色い電車が、ゆっくりと減速していく―――・・・



To be continued・・・

■注意■
今回のお話の中で、歯科診療に関する不正請求のことに触れていますが、全ての歯科医院がそうとは限りません。
これはお話の都合上そういった表現をしているだけで、実際ちゃんと保険ルールに従って診療している歯科医院は沢山あります。
しかし、歯科医院を取り巻く現況が厳しい事は確かです。 多くの歯科医院はそういった状況の中で真面目に診療に取り組んでいます。