Secret Love affair  #5 予備校


「どうしたんだ? 一体・・・」
放課後、僕が職員室で担任に話をしたら、案の定 担任は渋い顔をした。
「親御さんには相談したのか? 五十嵐の家は歯医者だろ?」
「いえ、まだ・・・ でも、自分の進路ですから自分で決めます」
「〜〜〜そうは言ってもなぁ・・・」
担任は腕を組んで、「ずっと医科歯科大狙ってたんじゃないのか?」
「そうですけど・・・」
「私立だって歯学部のあるところは沢山あるだろう? 今のまま頑張れば、そっちは確実じゃないか。 ・・・まさかそっちも受けないのか?」
「・・・受けるだけなら受けますが、仮に合格したとしても行くつもりはありません」
「五十嵐〜〜〜・・・」
結局担任にはいい顔色をされないまま、僕は職員室を出た。
今まで僕は、父親が歯科医を開業している関係から、なんの疑問も持たず歯学部を受験するつもりでいた。
両親だって当然のようにそう思っている。
模試のたびに書いてきた志望校は、国立こそC判定だったけど、私立だったらB判定以上取れていた。
それをセンターまであと1ヶ月を切ったところで、僕は急に志望校を変えた。
担任が慌てるのも無理はない。
けれど、いくら担任が慌てても、僕の進路は僕が決める。

―――今のまま頑張れば確実・・・

なんて担任は言ったけど、この世に確実なことなんて何ひとつない。
今日と同じ時間が明日も流れるなんて保障は、どこにもない。
・・・・・僕が歯学部を目指せる状況にいられるかどうかなんてことも・・・ 誰にも分からない。
―――いつ、父がしている不正請求のことがバレるか・・・

僕は、父の不正請求をきっかけに、歯科医になることを躊躇い始めていた。
元々、強く歯科医になりたいという願望があったわけじゃない。
それに、この歯科医飽和時代に歯学部を卒業しても歯科医にならない者も増えている。
実際、予防歯科が広まってきたおかげで患者自体が減ってきているのに、毎年歯科医が増え続け、今ではコンビニより歯科医院の方が多いぐらいだ。
そんな時代に、無理して歯学部を卒業する意味なんてあるんだろうか・・・

この世の殆どは、理想と希望と嘘で作られたものだ。 いつ壊れたっておかしくない。
そのいつ壊れたっておかしくないものが永遠のもののように思えるのは、みんながそれに気付かないフリをしているから・・・ それだけだ。
だったら、これからは自分のしたいことを。
いつ今の状況が壊れても後悔しないように、自分の道は自分で決めたい。

家に帰ったら、案の定 母親が難しい顔をして待っていた。
「どういうつもりなの?」
「・・・何が」
「とぼけるのは止めなさい。 先生から電話あったわよ」
「聞いたの? ・・・じゃ、その通りだから」
うんざりしながらそう返事をして、そのまま2階に上がろうとしたら、
「・・・隼人、あなたまさか・・・ お付き合いしている人とか、いるんじゃないでしょうね?」
・・・またこれだ。
母親は、僕が少しでも自分の考えが及ばないようなことをしようとすると、それを異性関係のせいだと短絡的に決め付ける。
それは父の知り合いの息子が、せっかく入った歯科大を女性関係で強制退学させられた一件があったからだ。
母親はそれを聞いて、僕の事まで必要以上に心配するようになった。
―――鬱陶しい・・・
「・・・・・だったら、何?」
「何って・・・ やっぱりいるのねっ!?」
母親の形相が変わる。「そんなの許さないわよっ!?」
「なに騒いでんのよ〜?」
階段の下で母親が喚いていたら、2階から姉が下りてきた。
「あ、美雪! 隼人がロクでもない女に騙されて、歯学部受けるの止めるなんて言い出したのよっ!!」
馬鹿馬鹿しい妄想・・・・・ 訂正する気にもならない。
「へぇ?」
姉が不躾な視線を僕に向ける。「隼人にも彼女なんかいたんだ? チョー意外!」
「何が不満なのっ? こんなに恵まれた環境にいてっ!!」
―――あんたが不満だ。
そう言ってやったら、この人はどんな顔をするんだろう・・・
「パパが歯科医をやってくれているから、高校だって予備校だって通えているのよっ!? 歯科大に入って跡を継ぐことが親孝行なんだって、どうして分からないのっ!?」
「あ、診療所ならあたしが貰うし〜」
「美雪は黙ってなさいっ!! 隼人はね、医科歯科行くんだから!」
「マジでッ!?」
「・・・・・行かないよ」
そう言って階段を上る。
「隼人っ!!」
母親がヒステリックに叫ぶ。「・・・そんな女とは今すぐ別れなさい。これは命令よ!」
「僕はッ!!」
弾かれたように振り返り、母親を睨み付けた。「・・・誰の言うことも聞かない」
母親と姉が驚いた顔で僕を見上げた。
「自分の道は自分で決める。誰にも依存したりしない!」
「隼人!」
「・・・・・母さんや姉さんが、父さんの稼いだ金に依存するようにね?」
母が目を見開くのと同時に、自分の部屋に駆け上がった。
制服のままベッドに倒れこむ。
・・・・・なんであんなことまで言ったんだ・・・ 僕は・・・・・
言ったそばから後悔が押し寄せる。

「・・・入るぞ?」
いつまでも部屋に閉じこもっていたら、診療所から帰ってきた父親が僕の部屋のドアを叩いた。
「・・・・・なんかあったのか?」
父は勉強机の椅子に座って、机の上に広げてあったテキストをパラパラとめくった。
僕はただ黙ってベッドの縁に座っていた。
「・・・・・母さん、泣いてたぞ?」
・・・そうかもしれないとは多少思っていた。
けれど、やっぱり言葉が見つからなくて僕は黙っていた。
「歯医者になりたくないんだって?」
キャスター付きの椅子を回転させて、父が僕の方を向く。
「・・・だったら、ならなくてもいいんだぞ? 無理強いする気は全くないんだから」
「だけど・・・」
「そりゃ、正直 隼人が跡を継いでくれれば嬉しいけど・・・ お前はお前だし。好きなようにやればいいさ」
「・・・みんなが好きなようにやってたら、世の中回っていかないよ」
僕がそう言ったら、父はちょっとだけ笑って、
「若いうちからそんなこと考えてたら、つまんないだろう? やりたいようにやるのが一番だぞ!」
と僕の頭に手を乗せた。

・・・・・じゃあ父さんは、好きで派閥争いに首を突っ込んでいるの?
・・・・・やりたくて不正請求なんかしているの?

・・・・・立場上仕方なく・・・ 家族のために仕方なくやっているんじゃないの?

―――そう聞くのは止めた。


この世の殆どは、理想と希望と嘘で作られている。
それを支えているのは、きっと父のような・・・笑顔の裏で泣いている人間だ。


「・・・ごめん、父さん。 ちょっと、体調悪くてイライラしていただけなんだ・・・」
「なんだ、風邪か?」
父が僕の額に手を伸ばしてくる。 僕はそれを避けるようにして、
「かも。 でも、平気だよ。 ・・・もう今日は寝る」
「そうか? ならいいが・・・ 大事な時期だし、無理するなよ?」
僕が机の上を片付け始めたら、父も部屋を出て行こうとした。
「・・・・・父さん」
「ん?」
ドアノブに手をかけたまま、父が振り返る。
「僕、頑張って医科歯科行くよ。 ・・・母さんに謝っといてくれる? 八つ当たりして悪かったって・・・」
父は一瞬だけ僕の顔を見つめたあと、穏やかな顔になって肯いた。

ここで自分を押し通してなんになる?
それで、何か確実に得られるものがあるって保障があるわけでもない。
そうだ・・・ 確実なものなんか何もないって、僕は分かっていたはずじゃないか。
―――ただ・・・
押し通したらこうなるだろう、という予想がひとつ。

・・・・・家族が壊れる。


「・・・・・すみません。 ちょっと・・・」
予備校の講義の途中で席を立ったら、講師が露骨に嫌な顔をした。
予想していた反応だけど、我慢が出来なくてそのまま教室を出た。
そのままトイレに駆け込んで、洗面台に手をついた。
心臓が異常なほど早鐘を打っている。
軽い目眩と、耳鳴りもする。
まるで、長距離マラソンを走った直後のように身体もだるい。
1週間ほど前から僕は体調がおかしくなっていた。
医者には行っていないけど・・・ 多分、自律神経辺りがおかしい気がする。
とにかくイライラする。
夜、部屋で勉強していても、静かなのにうるさい。
母の声が、まるで黒板を引っ掻くような音に聞こえる。
ベッドで横になっても、全然疲れが取れない。 大体、眠り自体が浅い。
どこにいても、気が休まらない・・・
一体どうしたって言うんだろう・・・ 僕は・・・・・

「五十嵐くん・・・? 大丈夫?」
いつまでも洗面台にもたれかかっていたら、トイレの外から遠慮がちな声が聞こえてきた。
鈴を転がすような、耳に心地よい・・・・・
―――彼女の声だ。
本格的な受験シーズンに入り、風紀の見回りも2年生に引き継がれていた。
その風紀の見回りが唯一彼女と2人きりになれるときだったのに・・・
それがなくなったせいで、彼女と話すことは殆どなくなってしまっていた。
教室でクラスメイトと話す彼女の声を聞くことはあっても、それが僕に向けられることはなかった。
そんな状況にしたのは、この僕だけど・・・
だからはじめは、今ここで彼女の声が聞こえたのは、体調の悪さが僕に聞かせた幻聴だと思った。
「五十嵐くん? いないの?」
でも2度目に名前を呼ばれて、それが幻聴じゃないって分かったときは、身体が震えた。
―――彼女が僕を呼んでいる。
すぐにその声に応えたいのに、身体も、声帯も、言うことをきいてくれない。
「ごめん・・・ 入るよ?」
さらに遠慮がちな声が聞こえ、僕のカバンを抱えた彼女が男子トイレに入ってきた。
「・・・ッ!? い、五十嵐くんッ!? 大丈夫ッ?」
僕の姿を見て、彼女が慌てる。
「・・・・・村上さん・・・ 講義中じゃ、ないの・・・?」
なんで僕のカバンを抱えているんだろう・・・?
っていうか・・・ どうして僕がここにいるって分かったんだろう・・・・・
「そんなのとっくに終わったよ? なのに、五十嵐くん全然戻ってこないから・・・」
心配そうに僕の顔を覗き込む彼女。
そう言われて、さっきの授業が週に一度だけ彼女と一緒になる英語の授業だと思い出した。
だから、僕が講義途中で教室を出て行ったのも知っていたのか・・・
嬉しくなって・・・ 思わず彼女の手を握った。
「・・・それで、心配して見に来てくれたの?」
「ちっ、違うよっ! 勘違いしないで!? 先生に言われただけ! 先生はあたしたちが同じ学校だって知ってるから、だから・・・」
彼女は1ヶ月ほど前から、僕が通っているこの予備校に通うようになっていた。
もちろん偶然だ。
僕には嬉しい偶然だったけど、彼女にとってはどうだったんだろう・・・・・
なんて、考えなくても分かるか・・・
彼女は慌てて僕の手を振り解いた。 振り払われた僕の手が洗面台に当たる。
すぐに彼女の手を握り直したかったけど・・・ 手を伸ばす気力が残っていなかった。
僕がいつまでもそのままの体勢で洗面台にもたれかかっていたら、彼女はまた心配そうな顔をして、
「・・・・・もしかして、体調悪いの?」
と僕の瞳の奥を探るように覗き込んできた。
「はは・・・ 大丈夫、だよ」
僕がそう言って笑っても、彼女はまだ心配顔のままだ。
「・・・・・うそ。 ホントは気分悪い。 ごめん」
「もうっ! だったらちゃんと言ってよ!! ・・・事務室行って先生呼んでくる」
彼女はちょっと怒ったような声でそう言ってトイレを出て行こうとする。
「待って!」
慌てて彼女の手を掴んだ。「・・・行かないで」
「え・・・?」
彼女が振り返る。 その振り返った彼女の肩に自分の頭を乗せた。
「・・・しばらくこうしてれば治るから・・・ ちょっと肩貸して?」
僕がそう言ったら、彼女は戸惑いながら、
「でも・・・ お薬とか、もらった方が・・・」
「・・・村上さんが薬」
「・・・なに言ってるの」
そう言いながらも、彼女は僕の頭を払い落としたりしなかった。
・・・今までだったら、絶対押し返されていた。
体調が悪いっていうのも悪くないか・・・ なんて。
しばらくそうしていたら、徐々に目眩も動悸も治まってきた。
―――本当に彼女は薬みたいだ。
僕を興奮させもするし、落ち着かせもする。
そっと彼女の背中に腕を回した。
僕の方が彼女を包み込んでいるのに、逆に包まれている感覚・・・
天日に干した毛布に包まれているような、そんなあったかい感覚・・・・・
「五十嵐くん・・・?」
「別にヘンな事しないよ。 っていうか、そんな元気ない」
僕がそう言って笑ったら彼女も一緒に笑うだろうと思ったのに、彼女は何も応えなかった。
しばらくそのまま彼女の肩口に額を乗せていたら、
「なんか・・・ 無理してる?」
と彼女が。
「・・・え」
思わず顔を上げた。 彼女も僕を見上げて、
「ここんとこ学校でも顔色悪いし、今日の予備校の講義中だって真っ青だったよ?」
―――不意打ちだ。
ずっと僕のことを避けていたくせに。
クラスメイトとしてすらも、話しかけてくれなかったくせに。
なのにそんな心配そうな顔をして、僕の瞳を覗き込んで、そんなこと言うなんて・・・ 反則だ。
彼女の背中に回していた手を後頭部に滑らせた。 一気に僕の顔と彼女の顔の距離が縮まる。
「え? ちょ・・・? 五十嵐くん?」
途端に彼女が慌てる。
「村上さんが悪い。 ・・・薬の与え方、間違ったから」
「え? な、なに・・・? ンッ!」
可愛い彼女の唇に自分のそれを押し付けた。
「ンンッ! や、やだっ! んっ!」
やだ、なんて言われたってもう無理だ。
鎮静剤だったはずの薬は、もう媚薬として僕の身体に回ってしまった。
「五十嵐くんっ! もう大丈夫なんでしょ・・・ んっ! だ、だったら、あたし帰・・・ッ! んっ!」
彼女が僕の胸に手を当てて抵抗する。
「駄目・・・ 村上さんがいなくなったら、僕また具合悪くなっちゃうよ」
そのまま彼女の首筋に唇を這わせた。
「や、んっ!」
彼女の身体が震える。 片手で彼女を抱き寄せ、もう片方の手で制服の上から彼女の胸に触れた。
「ホントにやめてっ!」
彼女が僕の手を押さえる。「陸がっ!」
僕も一瞬動きを止めて彼女を見下ろした。
「・・・陸が迎えに来てるの。 だから、もう帰らなきゃいけないの」
彼女は、ちょっと怒ったような視線と一緒に、持っていた僕のカバンを押し付けてきた。
―――陸。
陸・陸・陸・陸・陸・陸・陸・陸―――・・・ッ!!
・・・キミはいつだってそれだ!
「・・・いつまでアイツと続いていくって思ってんの?」
「・・・え?」
「どこまでも今のまま・・・ 一緒に生きて行けるとでも思ってる?」
僕がそう言って彼女を見下ろしたら、彼女も僕を見上げた。
「村上さんが卒業して・・・将来に向けて道を拓いて行くことに、アイツがついていけるとでも思ってるの?」
「五十嵐くん・・・」
彼女が戸惑った視線を僕に向ける。
「商業科と普通科ってだけでも相当人種が違うのに、これで卒業して一緒にいる時間が少なくなったら、すぐに気持ちなんか冷めるよ」
「・・・・あたしと陸は違うもん。 絶対そんなことないもん!」
「人の気持ちに・・・ いや、全ての事に絶対なんてありえないよ」
彼女が僕を睨みつける。
「仮に村上さんの気持ちが変わらないとして、アイツもそうだって言える?」
僕がそう言ったら彼女はちょっとだけ視線をそらした。
「もしそうだって思ってるなら、それは村上さんが作り上げた理想に過ぎないよ」
この世界の殆どは、理想と希望と嘘で作られている。 だからいつ壊れたっておかしくない。
人の気持ちだってそうだ。
視線をそらしたまま僕の話を黙って聞いている彼女に続ける。
「そんなの幻だよ。 いつか覚めるときが来る」
「・・・そんなこと、ないもん」
僕を見上げる彼女の瞳が潤んできた。
「あるよ」
「ないっ!」
「あるっ!」
さらに彼女を強く抱き寄せて、「人の気持ちほど不安定なものはない。 すぐに壊れるものなんだよ。 ・・・そんなもの、いくら追いかけたって無駄なんだよ・・・」
必ず壊れるときが来るものを壊れないようにするために、誰かが裏で泣いている。
自分の気持ちを抑えて、我慢して、ときにはしたくないことまでして・・・
そうやってこの世の中は成り立っている。
昨日と変わりない今日。 今日と変わらない明日。 穏やかな毎日・・・
―――吐き気がするほどの擬似平和。
そんなことにも気付かないで、いつまでも自分の気持ちが変わらないと信じて疑わない彼女にも腹が立ってきた。
「・・・ッ!? やっ、いやっ! ・・・んっ!」
再び彼女に強く口付けた。 彼女が持っていた僕のカバンが、音を立てて床に落ちる。
逃げる彼女の唇を追いかけ、何度も食んだ。
そんなことを繰り返していたら、また目眩が襲ってきた。
動悸も早くなり、耳鳴りもする。
くそ・・・ッ どうしたっていうんだ・・・ こんなときに・・・・・ッ!
それを無視して彼女に口付けていたら、さらに体調が悪くなってきた。
真冬だっていうのに、額がじんわりと汗ばんでくるのが分かった。
彼女の制服のボタンを外したところで、どうにも身体が言うことをきかなくなってしまった。
「・・・い、五十嵐、くん・・・?」
彼女がちょっとだけ息を弾ませて、訝しげに僕を見上げる。

―――人の気持ちほど不安定なものはない。
―――いくら追いかけたって無駄だ・・・

なんて・・・
何を偉そうに言ってるんだ。 僕は・・・
その形のない不安定なものをいつまでも追い続けているのは・・・誰だ?
しかもそれは、どう足掻いても絶対に僕の手には入らないものだっていうのに・・・


「・・・すごい汗だよ・・・?」
彼女が僕の額の辺りに視線を移す。
・・・こんなサイテーな僕を、少しでも心配してくれているのだろうか・・・
その瞳に身体だけじゃなく、心まで震える。
身体はこれ以上ないくらいダルいけど、どうしても彼女に触りたい。
―――もっと・・・ もっとキミに触れたい。
「・・・・・やっぱり、村上さん、薬の与え方間違ってるよ」
そう言って彼女の首筋に唇を落とそうとしたら、
「もう誰も残ってないと思いますけどね〜」
と廊下の方から声が聞こえてきた。
二人で弾かれたようにトイレの出入り口の方を振り返った。
「や、でも絶対いるよ。 まだ出てきてねーもん」
彼女が息を飲んで固まる。
――――――彼女の恋人の声だ。
講義が終わってからどれぐらい時間が経っているのか分からない。
けれど、いつまで経っても予備校から出てこない彼女を心配して、アイツが教室まで探しに来たことは瞬時に分かった。
こんな、男子トイレに2人きりでいるところを見つかったら、どんな言い訳も出来ない。
教室からトイレの出入り口は丸見えだ。 今出て行くことは出来ない。
彼女の肩が震える。
乱れた制服も直せないぐらい彼女が動揺しているのが分かる。
「―――こっち!」
落ちたままだったカバンを拾い、うろたえる彼女の腕を引っ張って個室に入った。
フタを閉じた便座に腰掛け、その僕の膝の上に彼女を抱きかかえた。
「結衣〜〜〜?」
隣の女子トイレからアイツの声がする。
「・・・・・り、陸・・・」
僕の腕の中で彼女が震える。
―――さっさと帰れっ!!
そんな僕の願いも虚しく、無情にもアイツが男子トイレに入ってきた。
「おかしーなぁ・・・」
と呟きながら用を足している。
早く出て行け・・・ 出て行け、出て行け、出て行け・・・ッ!!
彼女を抱えた僕の左腕に、異様なほど早くなった彼女の鼓動が伝わってきた。
「っ、はぁ・・・ はぁ・・・ ゃ・・・・・ッ!」
彼女の息が浅くなり、恐ろしさから微かに声が漏れる。 慌てて彼女の口を押さえた。
洗面台で手を洗っていたらしいアイツの、
「ん?」
とこちらを振り向く気配が伝わってきた。
――――――神様ッ!!
思わず目を閉じた。
彼女だけじゃなくて、僕の心臓まで早鐘を打ち始める。
そして目眩と、耳鳴り・・・
僕のこめかみから汗が流れたとき、
「あの〜? 用が済んだら出てってもらえます? 電気落としたいんで」
事務員らしき声が新たにトイレに入ってきた。
「あ、すんません。 つか、まだ誰か入ってますよ?」
「え?」
「個室」
―――ッ!? 余計なことを・・・・・ッ!
足音が近づいてくる。 ―――ノック。
「入ってます? 大丈夫ですか?」
事務員がドアの外から声を掛けてきた。
バレないとは思うけど、アイツの前で返事をするのは危険だ。
ノックで返そうと思ったけど、彼女を抱えて 口を押さえているせいで両手が塞がっている。
仕方なく爪先でドアを軽く蹴った。
「・・・じゃ、出るときは電気消していって下さいね?」
そう言い残して事務員が離れていく。
「ところで、いました?お友達」
「や、それがいないんすよ」
「じゃ、やっぱり先に帰ったんじゃないですか?」
「え〜〜〜・・・」
そんな会話をしながら2人がトイレから出て行く。
トイレ内に静寂が戻ってきた。
でも、すぐには緊張が解けなくて、僕は彼女を抱えたままそこに座り込んでいた。
静かなはずなのに、僕の鼓動が脳内でハウリングを起こしたみたいに響いていて・・・・・頭が割れそうに痛い。
それからどれぐらい時間がたったのか・・・
「・・・・・五十嵐くん・・・ 放して」
彼女の呟くような声で、我に返った。
「あ・・・・・ ごめん・・・」
と謝りはしたけど、彼女を抱いていた腕がまるでロウで出来たように固まっている。
僕がいつまでも彼女を放せないでいたら、彼女の方がゆっくりと僕の手を解いた。
感覚のなくなった僕の腕から、彼女がすり抜ける。
「・・・・・具合悪いなら、自分で事務室行って」
まだ座り込んだままの僕を彼女が見下ろす。「あたし帰る」
彼女の瞳に困惑と怒りが混じっている。
そんな彼女の顔を見ているのが辛くなって、少しだけ俯いた。
今まで彼女に触れているときに、今日みたいにアイツにバレそうになったことはない。
彼女が怒るもの無理はなかった。

これでまた彼女との距離が遠くなる・・・・・

・・・痛いぐらいの耳鳴りがする。

彼女はほんの少しだけ僕を見ていたようだったけど、すぐに踵を返して男子トイレを出て行った。
彼女の足音が遠ざかる。

僕からどんどん離れていく・・・・・


この世の殆どは、希望と理想と嘘で出来ている。
でも、僕と彼女の間には希望も理想も・・・ 嘘すら、ない。
僕にとっては、彼女こそが現実なのに・・・
彼女以外のものは、つまらない作り物でしかないのに・・・

僕のモノクロの世界の中で、唯一色付いている彼女。

その色がなくなったら・・・

僕の世界はどうなってしまうんだろう・・・・・


「大丈夫ですかっ!?」
僕がいつまでも個室に座り込んでいたら、何回か見かけたことのある事務員が血相を変えてトイレに飛び込んできた。
「あ・・・ はい」
いつの間にか動悸も耳鳴りも治まっていた。 ノロノロと立ち上がる。
「・・・・・立てるんですか?」
事務員がちょっとだけ眉を寄せる。
「・・・え? あぁ・・・ はい」
事務員の言っていることはよく分からなかったけれど、とりあえずそう返事をした。
そう言えば、なんで事務員がこんなところに来たんだろう?
もしかして、さっき埋まっていた個室がちゃんと空いたかどうか確認に来たんだろうか?
そんなことを考えながら、カバンを手にトイレを出ようとしたら、
「なんだ・・・ 驚かせないで下さいよ」
と事務員が大袈裟に溜息をついた。
「・・・は?」
「立てないぐらい具合悪いって言うから、焦っちゃいましたよ」
「え?」
言っている意味が全く理解できない。「・・・あの?」
「いや・・・ 今ね、女の子が事務室に飛び込んできて、トイレに具合悪い人がいるから行ってくれって」
「え・・・」
治まっていた心臓が大きく脈打つ。
「本部に電話をしている最中だったんで終わってから行くって言ったら、泣きそうな顔で、立てないぐらい具合悪いから今すぐ行ってくれって・・・」

・・・・・彼女が・・・?

もしかして・・・ 僕を心配してくれて・・・・・?

思わず、額に手を当て俯いた。
「・・・えっ!? やっぱり具合悪いんですかっ!?」
事務員が心配そうに僕の顔を覗き込む。
―――そんなんじゃない。
「いや・・・ 嬉しくて・・・・・」
そう返したら、事務員が眉間にしわを寄せた。


・・・もしかしたら、ただの責任感からだけかも知れない。
僕があのまま行き倒れになったら、後味が悪いと・・・ そう思ったのかも知れない。

でも、それでも僕は嬉しかった。


『泣きそうな顔で、今すぐ行ってくれって・・・』


・・・・・たったそれだけで・・・

―――このモノクロの世界でも生きていける。

そう思えるほど、嬉しかった・・・・・



To be continued・・・