ひとつ屋根の下   第7話  故郷B

「遅い。何やってたんだよ」
待ち合わせの時間に15分遅れて行ったら、案の定伊吹は渋い顔をして待っていた。
「ごめん。道に迷っちゃって……」
「道に迷った? お前ら天龍寺回ってたんだよな? 目の前だろうが」
翌日の自由行動は嵐山だった。
班行動の予定では、渡月橋行って天龍寺に行ってから、常寂光寺や二尊院なんかをぐるっと回ってくることになっている。
「うわー、すごい人!」
「あんなに乗って橋落ちないのかなぁ?」
と嵐山の人の多さに驚く里香たちを尻目に、あたしは朝からシュミレーションに余念がなかった。
どうやったら里香たちに不審に思われないように班行動を抜け出せるか……
伊吹との待ち合わせは嵐山駅だから……時間的にも駅のすぐ近くの天龍寺を回ったあとでみんなと別れたい。
あたしのシュミレーションでは、班行動で天龍寺を見学し終わったあと、
『ごめん、あたしお腹痛いから、ちょっと休んでる。みんなで回ってきて?』
と仮病を使い、
『大丈夫? じゃあ、あたしたちだけで回ってくるね』
とみんなと別れたあと、
『やっぱり体調が悪いから、先にホテルに戻ってるね』
とメールを打ち、こっそり伊吹と嵐山駅で合流する……ということになっていた。
ところが里香が、
「時間いっぱいあるし、先にお土産見ない?」
としょっぱなから予定を変更してしまった。
みんなもお寺や神社を見て回るよりお土産のほうに興味があるみたいで、誰も里香の案に反対しなかった。
ちょっとあせったけど、どうせ駅の近くのお土産屋さんを見て回るんだろうし……ま、いっか。
……と思っていたらお土産屋さんの店先を覗いたり、買い食いしながら歩いているうちに、嵐山の駅から離れてしまい、別な駅に出てしまった。
「うわー、機関車がある! トロッコ電車だって! 乗りたくない?」
どうやら渓谷沿いに走る列車らしい。終点の駅まで行って、そのまま乗って帰ってくるみたいだ。
時間にして1時間弱くらい。
乗ったらきっと、素敵な紅葉が見られるに違いない。
―――でも今はそんなのに乗ってる場合じゃない!!
それどころか、嵐山の駅から離れちゃって帰り道もよく分かんないのに……っ
「今ならまだ座席空いてるって!」
「ちょ、ちょっと待って!」
あたしは慌てて里香に声をかけた。
「ん? どうしたの、ナナ」
シュミレーションとはちょっと違うけど、ここで作戦を決行しないと!
「ちょっと……あたしは乗るのやめとく」
「え? なんで?」
「じつは……朝から体調悪くて…… 乗り物とか酔いそうだからさ」
というあたしのウソに、
「えー、そうだったの? そういえば朝から静かだったよね、今日」
と里香が声を上げる。
……よかった。朝からの演技は無駄じゃなかった。
「う、うん。だから5人で乗ってきて?」
「えー、ひとりで待ってるとか、チョーロンリーじゃん。じゃ、みんなで止めよっか」
あたしは里香の友情に慌てた。
気遣ってくれるのはありがたいんだけど、それじゃあたしの計画が……っ!
ここはみんなで乗っていってもらわないと!
「いいよ、みんなで乗ってきて! ……ていうか、ホント体調悪いから……もしかしたらホテル帰るかも、だし」
「えっ!? そんなに悪いの? じゃ、送ってくよ!」
さらにまりあが心配してくる。
……ありがた迷惑ってこういうときに使うのかもしれない。
「いや、ホント大丈夫だから! 気にしないで乗ってきて!」
「でもっ」
なんてやり取りをしばらくしたあと、
「ホントにっ! あたしのせいでせっかくの自由行動がつぶれちゃったらやだし。あたしは待ってるからいっぱい写メってきてよ。それ見せてくれればいいし!」
「ホントに〜〜〜…?」
「うん! 行ってきて!」
……と、多少の心苦しさはあったけど、なんとか計画通りに里香たちをトロッコ列車に乗せることができた。
それから嵐山駅に向かったんだけど……そこで迷っちゃったんだよね。
「なんであんな簡単な道で迷うんだよ」
伊吹が呆れる。
「だって、トロッコの駅に行ったのは、お店見ながら歩いてたら偶然着いちゃった…みたいな感じだったし。そこからここまでの道は初めてだったからしょうがないのっ!」
本当は来た道を引き返そうとして、余計に迷ったんだけど。
「ったく、時間ねーのによ。ほら切符」
伊吹はあたしが来るまでの間に切符を買っといてくれたみたいだ。
「あ、ありがと。……あれ? スイカは?」
「使えるか、バカ」
伊吹はそう言い捨てるとさっさと改札を通った。あたしも慌ててそのあとを追う。
「ここから遠いの?」
あたしたちが住んでる千葉の電車と違って、なんとなくのんびりした電車に揺られながら伊吹に声をかける。
「1時間半くらい」
伊吹はそれだけ言うと、座席にもたれかかるように座り、少しだけ首を傾けて窓の外を眺めていた。
……あんまりしゃべりたくないみたいだ。空気で分かる。
昨日は普通に話してくれてたけど……やっぱり、緊張してるのかな。
千葉に来てからは1回も行ってないって法子さん言ってたけど、きっとそれは金銭とか時間的なことが問題で行けなかったんじゃない。
『行けなかった』じゃなくて、『行かなかった』……んだと思う。
いろいろ思うところがあるんだろうし、そのへん聞きたいけど、もともと余計なこと……どころか、ひと言も口をきかないって約束でついてきたんだから、と我慢する。
あたしも黙って窓の外を眺めた。民家の軒先が流れていく。
この辺の景色はあたしたちの町とあんまり変わらない。
今までずっと観光バスで移動してたから、こんなふうに京都の町を眺めたことはなかった。
ここが伊吹の住んでた町、かぁ。
そっと伊吹の横顔を盗み見る。
少しは、懐かしい……とかあるのかな? 中1まで住んでた町なんだし。
……なんて、そういうことも聞けないけど。
しばらくすると、電車が道路の上を走り出した。すぐ真横を車が通っている!
驚いて窓にへばりついた。
もしかして……路面電車!?
うわーっ! あたし乗るの初めてっ!! しかも車と一緒に信号で止まってる!!
なにこれ―――ッ! 面白―――い!!
「い…っ」
伊吹、と呼びかけようとして慌てて口を押さえる。
きっと伊吹にとっては見慣れた光景なわけで、こんなことではしゃいで伊吹に声をかけたら、余計に気に障る。
あたしはおとなしく、線路の上を(踏切じゃないのに!)車が横切っていくのを眺めた。
途中何回か、駅の間を歩いたり、地下鉄に乗り換えたりしながら目的の駅に着いた。
そのあいだ交わした伊吹との会話は、
「降りるぞ」
「うん」
「210円」(切符の値段だ)
「はい」
とか、それだけ……
いや、そーゆー約束なんだからしかたないけど、もっとこうなんか会話らしいものしたいなぁ。
昨日までの修旅の様子とかさ。あたし全然伊吹のこと見かけなかったし。
でも、ヘタに話しかけて伊吹の機嫌を損ねたらマズイし……
と悶々としながら伊吹のあとについて歩いていたら、
「……いじゃん」
と伊吹が呟いた。
「え?」
驚いて顔を上げる。「なんて言ったの?」
伊吹は振り返って、
「ちゃんと言うこと聞いて、余計なことひと言も話さなかった。偉いじゃんっつったの」
と口の端を上げた。
え……? もしかして、笑った?
なんか微妙すぎて分かんない。
「え、あ…… だって、そーゆー約束だったし、なんか伊吹も話したくなさそうだったから」
とあたしが言うと、
「しつけた甲斐があったな」
と今度こそ笑ってくれた! ……意地悪そうにだけど。
「なに、その髪」
伊吹があたしの頭にチラリと視線を寄こす。
「あ……気付きました?」
「気付くわ。なにそのムリヤリ感」
実はあたしは今日、髪を結んでいる。
とはいっても、襟にかかるくらいしか長さのないあたしは、襟足をちょこんと結ぶのが精一杯なんだけど。
「髪は結んでたほうが早く伸びるんだって聞いたから」
昨日まりあや里香から、どうやったら髪が早く伸びるか聞いたら、
「結ぶと早く伸びるっていうよねー」
っていうから、さっそく今朝から試している。
あたしの話を聞いた伊吹は首を傾げて、
「なんで早く伸ばしたいんだよ。切りに行くのが面倒だろ」
って……それをあんたが言うっ!?
「だって、髪長い方が好きなんでしょっ」
ちょっとムッとしながらそう言ったら、
「は?」
伊吹は微かに眉を寄せた。「だれが」
「伊吹でしょっ! 昨日伊吹が言ったんじゃん! 短い髪の子はタイプじゃないって! 長い方が好きだって!!」
だからあたし……っ
あたしのセリフに、一瞬なにを言われたのか分からない顔をしていた伊吹だったけど、すぐに思いついた顔になって、
「あれマジにとったのかよ。ウソに決まってるだろ」
と笑い出した。
「は?」
「お前の友達がしつこいから、さっさと話し終わらせたくてテキトーに言っただけ」
そ、そうだったの―――っ!?
あたしけっこう本気で悩んじゃったのに―――っ!!
「べつに髪の長さで人を好きになったり嫌いになったりしねーよ」
「な、なによもーっ! 悩んで損したっ!!」
「お前はいいな。悩みの程度が低くて」
伊吹がくっくっと笑う。
「うるさいっ!!」
と伊吹に怒りながら、あたしは髪を結んでいたシュシュを取った。
バカにされたけど……伊吹と話すきっかけが出来てよかった。
このまま普通に話せそう。
「伊吹は昨日までどん」
……な感じに修旅を楽しんでいたのか、と聞こうとしたら、
「はねてるぞ」
と言いながら伊吹の手が伸びてきた。
そのまま後頭部を撫でられ、ドキンと心臓が鳴る。
「ドナルドダックみてぇ」
伊吹は笑いながら何度もあたしの髪を撫でている。
多分、今まで結んでいたせいではねた髪を直そうとしてるんだろうけど……
ちょっと待って―――っ!!
こんなふうに伊吹に頭を撫でられることないから……チョードキドキいってるよ、心臓っ!!
「しばったままのほうがマシだったかもな」
そう言いながら何度も撫でる指先が、ときどきうなじに触れて……
心臓パンクしそ―――っ!!
「へ、へ、平気っ! あとで濡らして直すからっ!」
慌てて伊吹の手から逃げるように頭を動かした。
もったいないけど……すごーくもったいないけどっ!
……これ以上頭なでられてたら、あたし絶対叫びだす。
「墓に水道あるから、水ぶっかけてやる」
「けっこうです!」
また伊吹が楽しそうに笑う。
……伊吹が好き。すごく好き。
こうやって伊吹があたしのとなりで楽しそうに笑ってくれるなら、髪なんかいくらはねたっていい。
そのあとも、他愛のない話をしながらお墓に到着。高台にある共同墓地だった。
入口にお花なんかを売っているお店があったから、そこで小さな花束とお線香を一束買った。
お彼岸を過ぎているからか、墓地に人の姿はまばらだった。
伊吹が水を汲んだバケツを持ち、あたしは花束とお線香を持ってそのあとに続いた。
「っ!?」
「ん? どうかした?」
前を歩く伊吹が、なにか小さく呻いて足を止めた。
どうしたんだろうと思い、伊吹の顔を覗き込む。
伊吹は目を見開いて前方を凝視している。あたしもその視線の先に目を向けた。
50mほど先のお墓の前に人がいた。
しゃがんで手を合わせているからお墓参りをしてるんだろうけど……それがどうかしたのかな?
「……伊吹?」
あたしの呼びかけに返事もせず、伊吹はまた歩き出した。
前方を睨んだまま……
どうしたんだろう。知ってる人……かな?
砂利道を踏みしめる足音で、向こうもこっちに気付き顔を上げた。
男の人だった。
たぶん、あたしのパパよりちょっと年上くらい。
部屋着っぽいスウェットに薄手のジャンパー、髪が乱れていて少し無精髭が伸びている。
男の人は微かに目を細めてあたしたち……というか、伊吹を見たあと、
「……伊吹、か?」
と目を見開いた。
やっぱり知り合いみたいだ。
でも伊吹はその問いかけに返事もせず、その男の人のそばまで行くと、
「……なんでてめーがいるんだよ」
と男の人を見下ろした。
伊吹の乱暴な物言いに、べつに気を悪くした様子も見せず、
「ここは……オレの墓や」
と男の人はまたお墓の方に目を戻した。
「てめーの墓じゃねえっ! ここは母さんの墓だっ!!」
伊吹の持っていたバケツが派手な音を立てて地面に転がった。砂利道にどんどん水が吸い込まれていく。
そんな伊吹にも男の人は無表情で、
「いずれ、オレも入る墓や」
と静かに墓石を見つめていた。
伊吹は眉間にしわを寄せて男の人を睨んでいる。
え……もしかして、この人……
「……お前の女か」
男の人があたしに目を向ける。その目が黄色く濁っていた。
「相変わらず女をたらしこむのが上手いな。そない見てくれに生んでやったオレに感謝しろや」
と男の人は意地悪そうに口の端を持ち上げた。
そんなことを言われても、伊吹は何も言い返さなかった。その代わり、ものすごく怖い顔をして男の人を睨んでいる。
男の人はふっと息を吐き出すと、
「…………法子は、元気か」
と言った。
伊吹は返事をしない。男の人もそのまま黙って伊吹を見上げていた。
しばらくそうして見つめ合った(伊吹は睨んでいた)あと、ふらりと男の人が立ち上がった。
背は伊吹より少し高いくらいだったけど、すごく痩せている人だった。
そのまま男の人は何も言わず、ゆっくりとした足取りで行ってしまった。
その足音が聞こえなくなっても伊吹は固まったままだった。
「い、伊吹……」
伊吹の腕に軽く触れると、伊吹は弾かれたようにお墓に駆け寄った。そして今生けたばかりだろう花を花筒から乱暴に引っこ抜き、砂利道に叩きつけた。
「伊吹……」
そして伊吹は、白い煙を上げているお線香まで素手で掻き出そうとした。
「伊吹っ! 火傷するよ、やめてっ!!」
あたしは慌てて伊吹を押さえつけた。
伊吹は浅い呼吸を繰り返しながら、
「な、に……勝手に花なんかあげてやがんだ、あの野郎っ!!」
と拳を握りしめた。「てめーのせいで母さんは死んだってのにっ!!」
「……」
やっぱりさっきの男の人は、伊吹のお父さんみたいだ。
法子さんと浮気をして、伊吹のお母さんを自殺に追い込んだ……
そのあとも何度も伊吹と揉めて、最後には法子さんに大怪我させて逃げたっていう話だった。
伊吹からその話を聞いたとき、なんて酷い人だろう、きっと横柄で乱暴な人に違いないって思ってたんだけど……
さっき見かけたあの人は、あたしのイメージとは少し違っていた。
ちょっと感じ悪いことは言ってたけど、終始興奮していた伊吹に対してひとつも声を荒らげなかった。
あたしはまだ興奮している伊吹をなだめるように、
「……お墓参り、しよ? せっかくお花も買ってきたんだし……お母さんにちゃんとあげてあげよ。ね?」
と伊吹の肩に手を掛けた。
伊吹は肩で息をしながら足元を睨んでいる。
「水、汲みなおしてくる」
あたしは伊吹の足元に転がったバケツを拾い、近くの水道まで急いだ。
伊吹……やっぱりまだお父さんのこと許せないんだ。
いや、ぜったい許せないって言われても仕方がないことをしたんだけど。
でも、あんなに…怒りで震えるほどに、感情が抑えられなくなるくらいに許せないんだ。
そんなお父さんと、まさかこんなところで会うなんて……
水を汲んで戻ると、伊吹はお墓を囲う御影石のへりに腰掛けて、足元に視線を落としていた。
その横顔がなんだか切なげで、こっちまで胸が痛くなってくる。
「伊吹」
「ん……」
伊吹がお線香に火をつけ、あたしも一緒になって墓石に手を合わせた。
……伊吹はお母さんに何を思っているんだろう。
たっぷり2分は手を合わせて、やっと伊吹は立ち上がった。
「……帰るぞ」
伊吹はそう言うと、出口の方に向かって歩き出した。
来たときと同じ道を今度は逆に下っていく。その間、あたしたちに会話はなかった。
気まずいとか、そいういうんじゃない。
伊吹がすごく傷ついているようで、本当はそれを癒してあげたいんだけど、でもそうしようとすればするほど逆に伊吹を傷つけそうで……怖くて声がかけられなかった。
駅に着いてから伊吹に声をかける。
「どうする? またみんなと合流する?」
時計は2時を回ったばかりだ。
「ホテルに帰る。今さら嵐山なんか見たってしょうがねぇ。……お前は見てくれば」
これは……暗に、ひとりにしろ、ってことなのかな。
「そっか。じゃ、そーしよーかな」
あたし……ひとりで行けるかな…… 嵐山まで。
多少不安を抱えながらも、とりあえず伊吹と一緒に電車を待っていたら、
「……あら。ひょっとして伊吹くんやない?」
と声をかけられた。振り返るとちょっと太った女の人が立っていた。
伊吹は微かに眉を寄せて、肯くように会釈をした。
「あらあらまあまあ。大きゅうなってー! ますますかっこよおなってー! おばちゃん見違えてしまったわ」
“おばちゃん”は伊吹の肩をぽんぽんと叩くと、「お母さんのお墓参り?」
と尋ねてきた。
「はぁ……まぁ」
と伊吹は曖昧に肯く。
誰だか知らないけど、どうやら京都にいたころの知人……しかも、あんまり会いたくなかった人みたいだ。
「お母さん亡くなってもう……5年くらい経つ? 伊吹くん今どこに住んではるの? 例の後妻さんと一緒なんやろ?」
伊吹はもう肯きもしなかった。ホームに立ったまま電車が入ってくる方向に顔を向けている。
「そういえば、お父さんのこと聞かはった?」
“おばちゃん”は伊吹が返事をしないことなんかお構いなしで話しかけてくる。
「やっぱりバチが当たったのかしらねぇ。あのあと結局1人で家に戻って来はってね。体調崩して何度も入退院繰り返して……たしか肝臓て言うてはったかな、悪いとこ。今も宇治の方の病院に入院してはるのよ」
「え?」
“おばちゃん”の話を聞いて驚いた。
今も入院してるって……だってさっきお墓参り来てたのに……
「あまりよおないって聞いてるよ。……待ってな。今メモしてあげるわ、病院の」
“おばちゃん”はレシートの裏に、病院名と大体の位置を書いてくれた。それを強引に伊吹の手に握らせる。
「ほなな。おばちゃん下り方面やから! お見舞い行ったげてな」
“おばちゃん”はまくしたてるようにそう言うと、近くの階段を駆け上がって反対側のホームに行ってしまった。
「伊吹……」
伊吹は手の中のレシートを握りつぶすと、ホームの端に設置されていたゴミ箱に向けて放り投げた。距離があったのとレシートが軽かったせいで、ゴミ箱には入らずに手前で落ちた。
「……相変わらずうるせぇババアだな」
「知ってる人?」
「昔となりに住んでたババア」
伊吹は忌々しそうに吐き捨てた。
「……そーなんだ」
「親切ぶってひとんちの内情にずかずか入り込んできやがって、腹立つんだよ」
伊吹を癒してあげたい、と思っていたのに、“おばちゃん”に会って余計に神経を逆なでされたみたいだ。
今の伊吹にあたしがかける言葉はない。余計なことを言ったら、それこそ“親切ぶって”になってしまう。
あたしは黙ってホームの端に行った。そして、ゴミ箱に入り損ねたレシートを拾う。
「ひらうなっ!」
伊吹が怖い顔をして振り返る。「……そんなもの拾うんじゃねぇよ」
「だって……」
あたしはレシートに目を落とした。「お父さん入院してるって……行かなくていいの?」
あたしのセリフに伊吹が目を見開く。
「お前、なに言ってんの? 誰が行くかっ! あんなヤツの見舞いなんか!」
「でも、あんまり良くないっていうし……伊吹だって次いつ京都に来れるか分かんないんだよ!?」
「全然いいね! 死んで当然な男だし。つか、まだ死んでなかったのかよ。やっぱあんとき殺してやればよかったな」
と伊吹は口元だけで笑った。
あたしだって、伊吹の心にひどい傷を負わせたお父さんを快くお見舞いしろ、なんて思ってない。
病気だって自業自得の部分が大きいのかもしれないし。
でも……このまま別れちゃっていいのかな。
伊吹と伊吹のお母さんに散々ひどいことをしてきたお父さんだけど、伊吹のお母さんの命日の今日、お墓参りに来ていた。
入院中のはずなのに……外出許可を取ってきたのか、それとも勝手に抜け出してきたのか……
そういえば、伊吹のお父さんは部屋着のような格好で来ていた。
そうまでしてお墓参りに来たってことは、やっぱりなにか思うところがあって来たんじゃないかな。
伊吹が許す許さないはべつにしても、そのお父さんの思うところを聞いてみてもいいんじゃないかな。
―――そうすることで、少しでも伊吹の心の負担が減るんじゃないかな……
「……ムカつくぐらいめでたいヤツだな、お前は」
「え?」
「死んだヤツの墓参りしてる人間は、みんな善人だってか」
「………」
なにも言ってないのに、伊吹には全部お見通しだったみたいだ。
「……そんなこと思ってない」
「じゃなんだよ」
「……会ったら、なにか変わるかな、と思って」
「はあ?」
伊吹が眉をひそめる。
「今のお父さんに会って、伊吹を縛る過去が少しでも解ければって……ひゃっ」
いきなりレシートを奪われた。伊吹はそれをびりびりに破いて線路の上に捨てた。
「……お前、なんつってオレについてきた?」
伊吹があたしをジロリと睨む。「余計なことは言わない、ひと言も口きかないっつってついてきたんだよな」
「そーだけど、でもっ」
「部外者が余計なこと言ってんじゃねーよっ!」
伊吹の剣幕に驚いて口をつぐむ。
部外者……
たしかにそーなんだけど、でも……
そんなふうに言われると、やっぱり落ち込む……
あたしが黙ったら、伊吹もそのまま黙っていた。
まもなく電車がやってきて、今さっき伊吹が破いて捨てたレシートがあちこちに舞い上がった。
黙って電車に乗り込む。そのあとも伊吹は一切言葉を発しなかった。
途中の駅で、
「……お前はここで乗り換え」
と言われた。
「え……伊吹は?」
「オレはホテル帰る」
あたしは京都の地理も電車の路線も、ホテルの場所すら分からない。
だから、この電車に乗っていけばホテルに着くのか……伊吹が本当のことを言っているのか分からない。
今の伊吹をひとりにするのは心配だったけど……でも、このままついて行くことは伊吹が許すはずもない。
「……じゃあ」
と言ってあたしは電車から降り、仕方なくひとりで嵐山に向かった。
途中何回も駅の人や通行人に聞いて、ようやく嵐山に到着。里香にメールをしたら、
「え? 戻って来たの? 体調大丈夫?」
と、今から天龍寺に入るところだった。
上の空で里香たちと一緒に天龍寺を回った。
……伊吹はお父さんのこと憎んでるけど、お父さんの方はどうなんだろう。
感じ悪いことは言ってたけど、伊吹のこと憎んでるようには見えなかった。
法子さんのことなんか、元気か、って聞いてたし。
しかも、今はひとりで、身体壊して入院してるって……
―――やっぱり、もう一度会ったほうがいい気がする。
伊吹を傷付け、過去に縛りつけたのがお父さんなら、それを解放するのもお父さんなんじゃないかな。
なんにしても、ちゃんと確認しなくちゃ。
あの“おばちゃん”が言っていたことが、どこまで当てになるか分からないし……
これで病院に行って、
「え、もうとっくに元気になって退院してますよ」
とか、そもそも入院なんかしてなかった、なんてことになったら余計に伊吹の怒りを買う。
「ごめん里香、ちょっとトイレ行ってくる!」
「またぁ?」
あたしは慌てて建物を出ると、さっきのレシートに書いてあった病院名を思い出しながら電話番号をケータイで検索した。そしてそのままその番号にかける。
相手はワンコールで出た。
『はい、ふたば医院です』
「あ、あのっ、ちょっとお伺いしたいんですが……」
『はい、なんでしょう』
「あのっ」
……と、そこまで言ったところで止まってしまった。
なにをどう聞くか、全然考えてなかった!
そちらに椎名さんて方が入院してると思うんですが……なんて聞いて、病院は簡単に教えてくれるかな?
個人情報がなんたらって言われたりするかも……っ
そもそも、伊吹のお父さんの名前って、椎名、でいいのかな?
『どうかしました?』
ケータイの向こうから、こちらを訝しがる声が返ってくる。
「あ、あのっ、そちらに椎名さんて方、入院してますよねっ?」
焦りながらそう聞いた。
これで、教えてもらえなかったり、そもそも名前が椎名じゃなかったら……もう駄目だ。
ダメ元で返事を待っていると、
『椎名さんて……椎名サトシさん?』
と返ってきた。
『そ、そーですそーですっ!』
サトシかどうか知らないけど、すがりつくように肯いた。本人であると思いたいっ!!
『親戚の方かなにか?』
「えーと……」
一瞬答えに詰まる。「遠い親戚……みたいなもん、です」
当たらずとも遠からず……で許して欲しい。
「その椎名さんなんですが」
とあたしが話し始めようとしたら、
『椎名さんねぇ、困るんですよ勝手に外出されて』
と先に向こうから話し始めた。
勝手に外出って……ビンゴだ!
しかも、電話の相手は口が堅いほうじゃないみたいだ。
あたしが内心でガッツポーズをとっていると、
『もとから良くないのに、さっきの外出のせいでさらに数値が悪くなって……』
と相手は困った声をあげた。
「そーなんですか……」
やっぱり伊吹のお父さんは、“おばちゃん”の言うとおり、あんまり具合が良くないらしい。
『どうにも椎名さんには捨て鉢なところがあってねぇ。いざとなっても延命処置はしないでくれ言わはるし』
その内容から、いざとなったら……なんて話が出るほど具合が悪いんだと分かる。
そういえばお墓で会ったとき、異様に痩せてたっけ……
『あ、遠い親戚ていうたら、椎名さんの息子さんご存知ですか?』
「いやっ」
どどど、どうしようっ! なんて答えるっ!?
「し、親戚っていっても、遠すぎてほとんど血が繋がってないみたいなもんなんでっ! 息子さんのことはよく知らないんですっ」
……ごめんなさい。
もう口から出まかせのオンパレードだ。
『あら、そうなんですか』
相手はあきらかに落胆した様子だ。『椎名さん、よお話さん方なんですけど、息子さんの話だけはときどきしてくれはるんですよ。自分とは違ぅて勉強も運動も出来るて…… なんや事情がおありみたいで一緒には暮らしてないて言うてはったけど』
……意外すぎて、言葉が出なかった。
『会えるなら、普通に話ができるうちに会うてあげた方が、お互いにええと思うんですよ』
「そう……ですね」
『他にだあれもお見舞いに来いひんし』
なんだか胸が詰まってしまった。
『……ところで、聞きたいことってなんですか? あまり個人的なことはお答えできないことになってますが』
急に相手が改まった口調で聞いてきた。
今までさんざん個人的なことを話していたのに……と軽く驚きながらも、
「あ……お見舞いに行きたいので、最寄り駅を教えてもらおうと思って」
とテキトーに答えてケータイを切った。
……やっぱり、絶対会いに行ったほうがいい。
お父さんの具合がどれぐらい悪いのか全然分からないけど、今を逃したら次いつ会えるか……ううん、次があるかどうかも分からない。
そうなったら伊吹も、伊吹のお父さんも絶対後悔する。
伊吹は過去に縛られたままになる。
そんなの絶対ダメだ!

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